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人生五里霧中

小説『ペンギン・ハイウェイ』感想-1- 少年が世界の果てを見るということ

映画『ペンギン・ハイウェイ』の虜になり、過去に読んでいた小説『ペンギン・ハイウェイ』を再読した。部屋のどこにやったのかわからなかったので衝動的にKindle版を購入した。
正直なところ、改めて読んで実感したが精読しないと作品の魅力を解釈しきれないところはある。
 
だけれども過去に読んだ時以上に、映画版を通じて魅力を理解できた箇所や、小説としての巧みな作りに舌を巻いてしまったので、まずは出力したい。
映画『ペンギン・ハイウェイ』との違い、という視点での感想はまた別途したいため、どちらかというと小説自体の感想として書き出すつもりだ。(それでも映画に引っ張られる箇所はあると思うが……)
そのため『感想-1-』とした『感想-2-』もそのうちかけたら、いいな。
当然のことながらネタバレはある。注意。

 

・少年の目線で世界を見るということ
 
小説『ペンギン・ハイウェイ』の優れていることとして、視点のバランス感覚がある。
 
小説『ペンギン・ハイウェイ』は終始主人公であるアオヤマ君の一人称で進む。
アオヤマ君はたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するので、ありとあらゆることに、冷静に対処し理解しようとする。
それはペンギンや〈海〉だけでなく、お姉さんについてや、”死”についても向き合う。
アオヤマ君は真剣に物事に取り組んでいるし、その姿勢をアオヤマ君自身”大人としての姿勢”として信じて取り組んでいる。
 
しかしアオヤマ君は周囲から見れば年相応な子供である。
ガキ大将的なスズキ君へ当人は冷静に対応していても、子供のやりとりに見えるし、お姉さんのおっぱいに惹かれてしまう。
それでも一人称の視点である描写にブレはない。
彼の一人称は”大人な少年”として物語を紡ぎ続ける。
 
アオヤマ君の友人のウチダ君はアオヤマ君のフィルターを通して見ると、相対的に幼く見える(あくまで私見だが)
しかし、そのウチダ君もアオヤマ君やハマモトさんに劣ることのない研究の視点を持ち、「死ぬこと」などについて懸命に考え、仮説を立てる。
アオヤマ君の視点で描かれた世界でありながら、そこに息づく世界は僕たちが侮れるものではない。
 
アオヤマ君というフィルターを見た世界を小説『ペンギン・ハイウェイ』は描き続ける。
それはただ、大人と子供の世界をギャップでユーモラスに描くだけではない。ただのコミカルさでは終わらない。
子供だからこそ大人が思考を放棄するような命題について真に迫った哲学を繰り広げる。
クラスメイトのウチダ君と”死”について話し合う時の場面などその最たるものだろう。
 
人は死ぬ。それはある程度の子供から我々大人まで知っていることだ。
しかしその命題にすらアオヤマ君は正面から取り組む。
それはある種、変わることのない子供が真剣に物事に取り組む際の姿勢や視点だ。
 
当たり前のことだが小説『ペンギン・ハイウェイ』を執筆した森見登美彦は大人なのだ。
それであっても、それを大人の目線で茶化すことはなく、真正面から子供の目線で本編を描き切る。
これは並大抵の筆力で出来ることではない。
 
少年少女から大人になる成長の過程で抜け落ちてしまう視点から見た世界を描き切る。
物語の始まりから終わりまで、今本を読んでいた僕が失った(忘れてしまった)世界を描く、それが小説『ペンギン・ハイウェイ』だ。
 
メタフィクションとして見た時の循環構造
 
「もし私が人間でないとして、海辺の街の記憶はなんだろう?」
お姉さんは路地を歩きながら言った。「私だってお父さんやお母さんのことを覚えているし、自分が今まで生きてきた思い出があるよ。それもぜんぶ作りもの?」
 
小説『ペンギン・ハイウェイ』はペンギン、〈海〉、ジャバウォック、そしてお姉さんを巡る謎をアオヤマ君が解き明かし、事態は収束を見る。
それは『ペンギン・ハイウェイ』という物語の終わりでもある。
一連の騒動は空間移動や、時間移動などSF的な要素も、ファンタジーの要素も併せ持つ。
しかし、僕が小説を再読し、感覚的に得た視点はメタフィクションとしての要素だ。
 
アオヤマ君にも、ウチダ君にも、ハマモトさんにも、お姉さんにも、皆それぞれの人生が存在している。
しかし、それを読む私たちにとってはそれらは全てアオヤマ君が解き明かしたお姉さんと同じく”作りもの”だ。
小説『ペンギン・ハイウェイ』で上記の文章を読んだ時、僕が想起したのは同作者の『四畳半神話大系』だ。

 

四畳半神話大系 (角川文庫)

四畳半神話大系 (角川文庫)

 
成就した恋ほど語るに値しないものはない。
 
小説『ペンギン・ハイウェイ』は成就する恋の話ではない。しかし、追い求めた謎が一応の解決を見る物語だ。
そしてその謎が解決した後、物語はあっさりと終わりへ向かう
 
SF的な要素を持った〈海〉をアオヤマ君は”世界のやぶけたところ”と説明した。
そしてそれは小説内の物語を動かす原動力となる”謎”だ。
それが解決した時、世界は語られる存在ではなくなり、物語は終わる。
 
お姉さんに設定された記憶も、きっとアオヤマ君の思いも何もかも作りものとして物語は完結する。
物語の終わりとは”世界の果て”である。
 
ぼくは世界の果てに向かって、たいへん速く走るだろう。みんなびっくりして、とても追いつけないぐらいの速さで走るつもりだ。世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである。その道をたどっていけば、もう一度お姉さんに会うことができるとぼくは信じるものだ。これは仮説ではない。個人的な信念である。
 
上記の文章ののち、物語は終わり=世界の果てとなる。
 
僕たちがアオヤマ君のことをもう一度会いたい(読みたい)と思った時にどうすれば良いか。
世界の果てに通じている道は『ペンギン・ハイウェイ』である。
僕たちがもう一度、世界の果てへ向かってこの本=ペンギン・ハイウェイを開いた時、お姉さんやアオヤマ君と再会することができるのだ。*1
 
 
取り急ぎ、小説だけを読んで出力したいと思ったところは書いた。
正直、メタフィクションとして読む解釈についてはもう少し精読して、考えを組み立てないといけないとロジックが相当に甘いのだけれど、「そのような視点もあるのでは?」というところでここはひとつ勘弁してほしい。
 
小説『ペンギン・ハイウェイ』を再読することで、改めて映画『ペンギン・ハイウェイ』がどのような視点で情報を取捨選択し、描くテーマを設定しているかわかりかけてきた。
もう公開からだいぶ経ってしまっているが、もう一度か、二度劇場で見て、今度はその違いについてもブログで書いてみたい。
 
今日はそんなところで。

 

*1:この視点についてウチダ君の研究した「死ぬ」ことについての研究も物語の視点と絡めて読み解ける気がするのだけど、まだ自分の解釈が及んでいない。もう一度精読したい。