えのログ

人生五里霧中

筋肉少女帯『レティクル座妄想』は僕の世界に対する憤りへの肯定だった

 

レティクル座妄想

レティクル座妄想

 

 

全根暗オタクは筋肉少女帯を聴くべき!!!!!
というのは主語デカすぎの暴論だけどえのき個人の人生としては筋肉少女帯はどうしても欠かせないバンドの一つだ。
なので今日はその内の一枚、『レティクル座妄想』について書いていこうと思う。

 

筋肉少女帯の9枚目のアルバムである『レティクル座妄想』は厳密には最初に買ったCDでは無いのだけど、筋少に触れてとにかく馬鹿みたいに聴いて、今でもその頃の痛い記憶と共に振り返るアルバムだ。
 
AC/DCの回顧記事でも触れたのだけど、中高生の時の僕はとにかくルサンチマンを拗らせに拗らせていて
「学校のクラスのどいつもこいつも物事の面白さをわからない感性が大衆主義に汚されてコンテンツの本質的な情報ではなくてコンテンツの装飾だけをファッション感覚で消費するゴミ、粗大ゴミ、生ゴミ、それがクラスの馬鹿ども、大衆主義は全ての“評価されるべきもの”を“正当な評価”から遠ざける邪悪。すぐに腹を切って死ぬべきである。この世には物事の価値のわからない狂った審美眼の馬鹿しかいないんだ……」
みたいな理不尽な憎しみを持っていた。お前も大概ファッションクソオタクだよ、と当時の自分に言い聞かせてやりたい。腹を切って死ぬべきなのは10代のえのきである。
 
筋肉少女帯を聴き始めたのは正確な時期は思い出せないけど、HR/HMの流れで触れたので大体AC/DCと同じ頃だったと思う。
 
当時の僕は相当に2ちゃんねるガラケーでどっぷりと浸かっていたため、「音楽性の高いバンド教えろ」みたいなそもそも音楽性ってなにを持って定義してるんだよ、みたいなスレッドを読んで「ふぅん、なるほどね、これが音楽性のあるバンド、か……」って知ったかして、したり顔をしていた、ぶん殴ってやりてえ。
それでAC/DCが結構評価されているのを見て「やっぱり俺は音楽の価値がわかる人間、クラスの雑魚とは違う」とか歪んだ優越感を満たしていた。
 
記憶での印象なので間違っているかもしれないが、当時の2ちゃんというか自分の見ていた音楽系のスレッドはとにかく技術偏重というかHR/HM賛美みたいな空気があって「早弾き!ハイトーンボイスは神!」みたいなノリがあった。
今思えば大概偏った語り方だなと思うんだけど、そんな中で『音楽性が高いバンド』『演奏技術が神だったバンド』みたいなノリでよく筋肉少女帯が語られていた。当時筋肉少女帯は活動を休止して、実質的な解散状態だったので僕にとって『過去の伝説のバンド』みたいな存在は良いフレーバーになってなおさら興味を沸かせてくれた。あと、エヴァ綾波の元ネタの曲を歌ったバンドって情報もあったし……
 
そうしてTSUTAYAだか何かで筋肉少女帯を何枚か借りて聴いて衝撃を受けることになる。
 
「なにこのヘッタクソ ……(?)なボーカル!?」
 
なんだか男がとにかく野太い声でがなっている。
筋肉少女帯というバンド名を聞いて「少女ってついてるし何か透明感のあるボーカルなんかな、スピッツとかみたいな」とか思っていたえのきの感性が一瞬でぶっ壊されることになる。
全く2ちゃんの評価基準と重ならない“ひどいボーカル”で、とにかく地声でがなって歌っているような野太い大槻ケンヂの声がえのきのそれまでの音楽観をぶっ壊す。
 
それまでのえのきの価値観は「プロというのは上手い人がなるもの」で、その中で大槻ケンヂのボーカルというのははっきり言って異色だった。
なにせ素人目(耳)に「えっ、う、うまいのこれ??????」となるボーカルだったからだ。*1
 
極端な話、初めて聞いた時は大槻ケンヂのボーカルが筋肉少女帯というバンドの足を引っ張っている気すらしたのだ。
「もっと上手い人ボーカルにすればいいのに……」
なんて今振り返ると「なにもわかってねえな」みたいな感想を抱きながらも、その強烈なボーカルは僕に凄まじい衝撃を残した。
それでも何か引っかかるものがあって、釈迦とか日本印度化計画とか、有名どころを聞き流す中で、『レティクル座妄想』の『蜘蛛の糸』に触れて一気に筋肉少女帯の世界に踏み込んでいくことになる。
下記の引用は『蜘蛛の糸』の歌詞。
 
 
大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫
大丈夫大丈夫大丈夫だよねぇ
同じ会話に夢中で 同じ調子で笑って
くだらない君たちの中でボクは貝のように黙った

 

 
負のオーラをビンビンに発する暗黒世界がそこにあった。
明らかにJポップが歌っていた「青春って素敵!」「愛は素晴らしい!」みたいな価値観の真逆をいく『闇』としかいいようのない暗い歌詞。
自分の抱えていたドロドロとした感情を全て代弁してくれるような凄まじい負のオーラをまとった歌詞と、それを演出するような粘り気のある演奏、そして「なにこれ……」と最初思ったはずの、ドロドロした空気をまとめあげる大槻ケンヂの歌声。
大槻ケンヂの綺麗ではないボーカルでないと表現できない世界がそこにあった。
 
全てがド直球に自分の感性に突き刺さった。
 
「これは!!!!俺のことを!!!!!歌っている!!!!!!!!」
 
いや、冗談じゃなくそう思った。そのぐらい突き刺さった。
クラスで机に突っ伏して寝たフリして音楽聴いてた自分の感覚が120%凝縮された歌詞だったと思う。
 
僕にとって10代というのは日本語を知っているけれど自分の考えや感覚をうまく言語化できない時期だった。
色々な理由が複合した行き詰まりみたいな感情を全て「なんか、嫌」とか「うぜえ」としか表現できない時期。
そんな自分のフラストレーションを表現したくても表現できないで更に溜まっていくフラストレーションを『レティクル座妄想』の中の『蜘蛛の糸』は完璧に表現してくれていた。
 
当時、とにかく僕は落ち着きがなくて授業中とか学校で暇さえあれば、猫ではないけどグジグジと落書きをしていた。
こんな絵というか模様だった。
 

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中高生の時は振り返ってみるとマジで「正気かよ」って感じだったのだけど、とにかく何か解放できないドロドロとした衝動があって、それをとにかく発散させたい時期だったように思う。
まあこんな落書きもクラスの人とかに見られて
「え、えのきくんなに書いてるの……(うわぁキモォ…のニュアンス)」
みたいになっていたので『蜘蛛の糸』にある、
 
友だちはいないから ノートに猫の絵をかく
友だちはいないから やせた子猫の絵をかく

 

こんな歌詞が刺さりまくった。こんな!!!歌詞が!!!!!刺さったんだよ!!!!!!痛いくらいに!!!!!!!!!!(机をバンバン叩きながら)
つまらない奴らと関わるくらいなら落書きでもしてた方がマシ、そんな歪んだ自尊心を最大限に満たしてくれるような感覚だった。
 
同時に筋肉少女帯のバランス感覚というか、寄り添っておきながら突き放すような歌詞も魅力的だった。
 
蜘蛛の糸』も「僕は他の奴らとは違うからみんないつか見下ろしてやるからな!」なんて言っておきながら「それでもみんなが僕を笑ってる気がする」みたいな締め方をするし、
レティクル座妄想』というアルバム自体最後の曲の『飼い犬が手を噛むので』で
「頭がいい人には人間を狩る権利がある、なるほど。そうでしょう、じゃああなたちがくだらない人間か確認しましょう、はいおまえらダメー。ダメなやつはなにやってもダメなんだよアーハハハ!」
みたいな手のひらに乗せておいて手のひら返しするような突き放し方があった。
ダメなやつにとことん寄り添うというか、明らかに根暗側の人間の視点で作られた歌詞世界なのに、同時にそんな根暗な人間を同時に否定する要素があって、それが最高だった。
 
なんというか、えのきが10代の頃って強烈な自己肯定を求めている一方で凄いそんな自分に対してコンプレックスがあったんですよね。
オタクだし、背は低いしで結局クラスの人気者には成れないしだったらそもそも成りたくないし、みたいな。すっぱい葡萄的な。
今だとスクールカースト的なものとはだいぶ離れたし、自分は自分の楽しみ方というか物事との距離の取り方みたいのを(少なくとも10代の時と比べると)持てているのだけど、当時は鬱屈とした色々な感情がごちゃ混ぜだったので、「肯定されたいけど無条件の肯定は嫌」みたいな感じがあって、そんな拗らせ具合に筋肉少女帯は凄まじいフィットの仕方をした。
まあ筋肉少女帯というか大槻ケンヂとしては「いや俺にそんなカリスマ求めんなよ」的な当時の狂信的なファンへの嫌味もあって突き放したのかな、とは思うんだけどとにかくそんな突き放し方も含めて自分の『負の感情』みたいなものを肯定された気がしてめちゃくちゃに筋肉少女帯にハマった。
 
後、それまでの僕が聴いていた邦楽だとポルノグラフィティだとかスピッツだとか、他には人から借りてアジカンとか椎名林檎東京事変を聴いたりって感じだったのだけど、一枚のアルバムで完全に物語の連続性みたいなものを感じさせる筋肉少女帯のアルバム作りは強烈だった。
まあとにかくコンセプト作りとか、バンドが作る世界観とか、演奏技術とか、何から何まで突き刺さったんですよね。人生でそう多くあるわけではない「その瞬間だからこそ」って一番のハマり方をしたんだと思う。
 
そうして、10代の頃の僕は当時のJpopとかの“綺麗な曲”じゃあ代弁してもらえないようなドロドロとした感情を筋肉少女帯を介して吐き出すことができていた。*2
どこにもなかったんですよね、そういう綺麗でない感情を肯定してくれる、少なくとも存在を認めてくれるコンテンツが自分の世界にはそれまで。
GOING STEADYの『童貞ソー・ヤング』とか聴いた瞬間「うっわ非童貞側のいつか卒業する童貞の童貞ソングだ……」みたいな感じで距離取っちゃってたから根暗とか非モテに寄り添う曲も「俺の理解者じゃない……」みたいな感じがあったんですよ。*3
 
筋肉少女帯はだんだんとアルバムを重ねていくにつれ、本質的なドロドロとしたものが消えて、良くも悪くもテクニック的な過去の大槻ケンヂの感性を大槻ケンヂ自身が思い出しながら歌詞を作っていく歌詞とか空気感にシフトしていくのだけど、『レティクル座妄想』はそんな消えていく過去の大槻ケンヂ自身の呪いめいた感情を最後に再生産して、解放したようなアルバムだと思う。
2ちゃんとかのアルバムの評価では「過去の焼き直し」「自分たちのやってきたことの縮小再生産」みたいな評され方をされてはいたけれど、そんな縮小再生産だからこそ初期の筋肉少女帯よりもわかりやすくなった世界観が、10代の頃の感性に突き刺さって、少しだけ救われた自分がいた。
 
当時ほどの世界へのドロドロとした感情はないまでも、『レティクル座妄想』を聴くと懐かしいやら痛々しいやら、何も良くないんだけど“自分の10代”みたいなものを感じてしまう。
 
残念ながらAppleMusicとかでは配信されていないようだけど、筋肉少女帯と『レティクル座妄想』はそんなえのきの痛い思い出となった大切なバンドで、アルバムだったりする。
 
好き嫌いの分かれるバンドだと思うので、「みんな聴いて!」とまでは言えないのだけど、どこか“負の感情”というか発散できなかった屈折した辛さみたいなものを抱えていた人、現在進行形で抱えている人は聴いてみると刺さるかもしれない。
まあよかったらTSUTAYAとかで手にとってみてください。
 
今日はそんなところで。
 

*1:今改めて聴くと味があるボーカルだし、一概に下手とも言えないのだけど、当時の印象はこうだった

*2:いやJpopでも漁ってみればいくらでもあったと思うんですけど、少なくともその時の自分の世界にはなかったんですよね。

*3:当時の感想なので今は変わるかもしれないけど……