えのログ

人生五里霧中

何かを選ぶことも、選ばないことも、その気になれば何だってできる。十文字青『萌神』を読んだ。

 

萌神 (一迅社文庫)

萌神 (一迅社文庫)

 

 

友人に「面白かったから貸してやるよ」と言われたので読んでみた。
 
これがめちゃくちゃ刺さってしまった。
エンタメ的にちょっと難があるかもしれない点はあるんだけど、それ以上に自分の感性の部分で打ちのめされるというか、とても『来た』感じがあったのね。

 

ざっくりとあらすじなんだけど、
主人公の吉次啓久は凄い無気力な人間で、何をするにも全く感情が動かないんだけど、それを友人の『中佐』ってオタクが吉次に『萌え』を教えようと、怪しげな儀式をして『萌神(もえじん)』である猫神もえるを召喚するのね。
それで猫神もえるは、「萌えた」瞬間を増幅する萌長増幅(もエクスパンド)によって吉次の中の「萌え」を増幅できるのね。
ハーレム物の導入みたいな展開というか、そんな吉次を中心に、クラスメイトのヒロイン勢と関係ができていって、その過程でたびたび「萌え」を増幅されることによって、無味乾燥、無感動だった吉次がだんだんと世界に色彩を取り戻していく。
 
吉次は元から無感動な人間だったわけではなく、学習性無気力というか、「なにをしても手に入らない」って諦めから無感動な人間になっていて、
そんな一人の少年が、「萌え」って感情を元にいろいろな物に「どうでもよい」ではなくて悩み、欲するようになっていく。
 
そんな吉次の変化していく様子はとても良かった。
 
この小説、かなり人を選ぶかもなぁと思っていて、「萌え」って感情を真に迫って体験した人じゃないとあまり面白くないんじゃないかと思ってしまうところがあるのね。
中盤で吉次の友人の中佐が「人生の本質とは求めることにある」といったことを語るのね、だから無感動な吉次に萌えを知ってほしいと。
それで「なんで萌えなんだ」って思う人もいると思うんだよね。それこそ求めるという感情は「友情」「愛情」とかなんだっていいわけで。
でも自分にとって「萌え」ってチョイスはとても刺さるところがあるんだよね。
 
▼▼▼
 
僕が「萌え」を初めて体感したのって小学生高学年ぐらいの時だった。
当時プロアクションリプレイだとかXターミネーターとかでね、ドラゴンクエストモンスターズ2の隠しキャラを出したいって欲望でゲーム改造に熱心だったのね。
一人でお年玉とか貯めてプロアクションとか買ってた。寂しい小学生だな。

 

ゲームラボ特別復活号

ゲームラボ特別復活号

 
それでいわゆる『改造コード』が載っていた雑誌、ゲームラボに触れたんだけど、全然知らない世界なのね。
ゲームラボって結構当時のインターネットの空気感というか、アングラ感のある雑誌だったっていうのと、読んだのがオタク文化自体隠れた文化だった時だから、自分にとってガンガン知らない概念が流入してくるわけ。
 
体感でいうなら『オタク』と『一般人』が本当に分断されていた時だったから、普段テレビとかで見るのとは全てが違っていた。
そこで「萌え」って言葉も知った。
雑誌の中で、普段みていた夕方のアニメとは違う、美少女美少女したイラストと一緒に『萌え』って言葉が添えられていた。
 
最初は全然理解できなかったのね、なんだよ萌えって、みたいな。
それまでは「かわいい」とか「好き」 って概念は持っていたんだけど、「萌え」にあたる感覚が自分の中になかったのね。
 
んでイラスト投稿ページみたいので、たしか『巫女VSブルマ、どっちが萌えるか』みたいなページがあったのね。
自分は結構いろいろ突き詰めて考えたくなるタイプで、最初わからなかった「萌え」って感情を知りたくてクーラーの効いた部屋で延々その読者投稿ページをみてた。
たぶん1時間以上じっと見てたと思う。
 
不意に世界が変わる感覚がした。
全身に感情が巡るのを感じた。
 
いや冗談でもなんでもなく、自分の中からとんでもなく感情が溢れてくる体験があったのね。
思わず立ち上がってウロウロしながら、ゲームラボのページでブルマかなんかの美少女のイラストをみまくってた。
叫びたかった。もしかしたら家で声出してたかもしれない。
それが自分が「萌えた」瞬間だった。
 
僕は小学校に入学する前から
「どいつもこいつも似顔絵描くと自分を美化しやがるよな(どう考えてもイラストの方が本人より可愛く見えて「美化しやがってッケっとか思ってた。痛い。)、イラストの方が人間はかわいい」
とか本気で言っていた二次元大好き人間なのでもう本当、世界が変わったんだよね。
青天の霹靂。
生きていて良かった、ガキが何言ってんだよって感じなんだけどそれぐらいの感情だった。
 
▼▼▼
 
めちゃくちゃ話がずれたんだけど、それが自分が「萌えた」瞬間だったのね。
よくインターネットでは「所詮性欲だろ」とか「かわいいってことでしょ」とかそもそも「萌え」という言葉自体が死語になってきていて、自分の中でもだんだんとその感覚が薄れてきているんだけど、当時、確かに「萌え」としか形容のできない感情が自分の中で芽生えていたんだよね。
笑っちゃうくらいくだらなくて、めちゃくちゃ真に迫った感情だった。
 
『萌神』はそんな感覚を強く思い出させる小説だった。
この小説、エンタメ的にはかなりぶん投げに近いところがあって、いろいろなヒロインが出てきて「誰とくっつけばいいんだ、選ぼう」みたいな状態で話が終わってる。
終盤では異世界に転移して、打ち切り漫画寸前みたいな超展開になる。
ざっくり感想読んだりすると、その展開が「投げやり」とか言われてたりする。
でも、この小説はそれだけの展開を全て「萌える」ってことを説明するために費やしているんだと思う。
 
僕はここ数年ではリアルの人間関係にも救われているなぁと感じることが多いのだけど二十歳になるぐらいまでは、
「現実は助けてくれない。二次元はかろうじて現実に向かう勇気をくれるから二次元の方がよっぽど俺を助けてくれる」
って本気で思っていたし、今でも当時の感情は間違っていなかったと信じている。
それぐらい、現実に向かう勇気とか、エネルギーを二次元は自分にくれた。もっと言うなら萌えという感情が。
今は、「現実の付き合いってマジで大切だな」とは思っているけど、それはあくまで「現実の人たちもちゃんと自分を助けてくれるんだ、世界、思っていたより優しいな。そういう付き合い大切だな」って考えが追加されただけで
「二次元が俺を生かしてくれた」って感覚は今でも強く残っている。
 
「萌え」ってそれぐらい強い感情なんだ。
それこそ無味乾燥な人生に色彩が戻るくらいに。
 
だからこそ、超展開になる。超展開ぐらいしないと『萌え』って感情が与えてくれるエネルギーというか衝撃に見合わないんだよ、多分。
笑っちゃうくらいくだらないことを大真面目にやる様が『萌え』なんだよ、痛々しいくらいのまっすぐな感情なんだから『萌え』って。
 
吉次はこの小説で「一般的な」成長みたいのは見せない。
でも「萌える」ことはできるようになったんだと思う。
 
「人生の本質とは求めることにある」中佐がいった言葉と重ねて、無感動だった吉次が『萌え』を知ることで人生への欲求を取り戻す。
 
『萌神』は吉次という主人公が人生をどうにかする話ではなくて、その前段階、「萌え」を知ることでこれからの人生に飛び込む覚悟というか準備を終える話なんだと思う。
 
何かを選ぶことも、選ばないことも、その気になれば何だってできる。
 
そんなラストで出てくる一文は『萌え』という感情に内包された空想力でもあるし、人生でもある。
 
『萌神』とても面白い小説でした。
『萌え』に人生を変えられた人は読んでみるのもいいんじゃないでしょうか。
 
今日はそんなところで。