えのログ

人生五里霧中

NANAが面白い。マジで面白い。

 

 

いや、NANA大傑作なんですが。面白すぎる。

DMMのセールで買ったんですが1冊読んだらいきなり全巻読んでしまってようやくシンエヴァという「さようならすべてのエヴァンゲリオン……」な長年待った作品の完結を見たと思ったら今度はNANAの続きを待つ2021年に突入してしまった。いや、続いているのかもしれない。

 

NANAは出来事も結構起こるんですが、とにかくそれによる「心」自体が常に問題の中心となっていて、理屈であったり、合理性であれば「こうした方が良い」というのは当人でもわかることであっても自分の気持ちは違う、というアンバランスかつ生々しい感覚に常に向き合っていてそこが引き込まれる。あまりにも人間関係における「し、真理……!」と言ってしまうようなキラーフレーズがしばしば出てくるもので圧倒されっぱなしで一気に21巻まで読んでしまった。

 

こういう夢中になった作品は人の感想を読みたい〜〜〜〜〜〜となるんですが、NANA、以外とない。正確には感想はあるんですが、自分の読みたいツボを押さえてくれる感想がないというか……この感動を言語化してほしいんだ私は……!となるんですがないなら書くしかない。というかそういう時こそ頭を絞って感想を書きたいという気持ちがあるので曖昧でも徐々に言語化してみたい。

 

NANAは小松奈々(ハチ)と大崎ナナの二人の「NANA」が出会って……という物語なんですけど、一巻はそれぞれが東京に出る背景の読み切りで出会ってすらいないんですよね。物語が動く前。なのにその時点でめちゃくちゃに面白い……!

 

どういうところが面白いかというとひたすらに合理性ではない「心」の話が展開されるtころ。

NANAはまだ自分の中で新しい衝撃すぎて、スムーズに言語化できないのでそれだけでは多くの事柄を取りこぼしてしまうのですが、あえて自分の既存の概念を使って表現するとですね。

NANAはね、エヴァなんですよ……(ろくろを回しながらギラギラした瞳で)

※これはえのきがエヴァを見た時に心が動く回路について、NANAを読むと刺激されるという意味であり全くそうではありません。だが、だがしかし俺は「人と人が関わること」「心には断絶があること」「それでも誰かといたいという意志」=「エヴァ」と認識してしまっているため私は日常生活での「今の瞬間はエヴァだなぁ」とか「そこにいたのか……エヴァ……」となっています。という意味と解釈してください。以上。

 

どういうことかというとTV版の男の戦いとか、旧劇場版である『Air/まごごろを君に』で視聴者とか他のキャラからしたらシンジは絶対エヴァに乗った方がいい場面で、それだけじゃ絶対乗らないんですよね。乗りたくないから。乗らないと決めているから。状況とか正しさじゃなくて、自分がそうしたくない、そうしないと決めているから。それがクリアされない限り乗らないから。

自分はそんなエヴァの心の動きが好き理由の一つなんですよね。

そんな「正しさ」、そうした方が絶対に得だったり、期待されていることで日常は満ちている。でも、自分ではそうしたくないのにそれを「正しさ」を盾に迫られる時なんて人生にありすぎるほどあるんですよ。

エヴァはそんな中で(最終的には乗るが)「乗らない」「乗りたくない」という気持ちを持った時は絶対に乗ろうとしないという心が徹底されている、と自分は受け取っているんですね。

他にもエヴァの話は腐るほどあるので別のところで……

 

それでNANAの第一話なんですけど、高校生の小松奈々ことハチが失恋するところから始まるんですよね。

相手は社会人、既婚者という完全にアウトな恋。見方によっては搾取されているだけですらあるような関係。

相手(浅野)が東京に転勤するという理由で別れることになるという。それがハチにとっての傷になってしまう。

ストーリーだけで言うとハチがその後出会った章司と付き合うまでの話ではあるんですが、ここに既に葛藤がある。

ハチにとっての浅野との関係はなんだったのか。

それが浮気という倫理的に適切でない関係であったり、浅野にとってハチは遊びに過ぎなかった(少なくとも誠実な関係ではなかった)というのがあってその心の置き所が定まっていないんですよね。失恋の悲しみに浸りたくても、ハチにとって「恋」と呼ばれる関係性であったはずのそれがあまりにもあっさりと終わってしまったが故に、失恋とすら定義できずに傷になっている。

章司であったり、淳といった人々はいても中心はそのハチの心にあるんじゃないかと今のところ感じているんですよね私は。

たとえ遊ばれていた関係であっても、外部から見て滑稽だった関係であっても自分にとって真剣に生きていた関係をどう置くか。

もうこの時点で正しさの話じゃないんですよね。浮気が正しいか、正しくないかとか、ではない。「浅野は高校生を弄ぶカス」と定義づけて終わらせることも理屈のうえではできるんですが、ハチはそうしない。その自分の心、気持ちから逃げないんですよね。

自分の気持ちはデタラメだったのではないか。という疑いを持ちながらもそこを克服しようと試行錯誤する、というのが一話だったのではないかと。

その試行錯誤もスマートではないんですよね。浅野との関係から恋愛に恐怖が湧いていて、章司との関係にも自分の気持ちに素直に向き合えない。おそらくハチは本当に恋愛が好きで、恋愛が人生に必要なタイプなんですけど、その自分の性質のようなものに失恋、いや失恋と定義づけられない別れによって向き合えない。

淳や章司に言われる指摘はもっともな話ばかりで、それは正しく、ハチは愚かかもしれないけれど、それは真剣に自分の中の命題とハチは向き合っているんですよね。それを誰が笑えるというんだ。

 

あたしは彼を本気で愛してた

彼はそれを一時でも受け入れてくれた

それで充分だよ

ありがたいじゃないか

みじめに思う事はない

 

この境地に達せる人、一体どれだけいるんですかね。これは凄いことだと思うんですよ。自分の愚かさというか未熟さも、どうしようもなさも超えて、それでもその時感じていた自分の気持ちを本当だと信じる、あっさりと捨てられたのかもしれない、それでもそこに愛があったという。「でももう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」の亜種なんですよね……(ろくろ)と私の心がエヴァと接続されてしまう。

 

章司との関係だったりでもいくらでも読める箇所があって、NANAは一巻の時点で尋常なく語れるところがあって止まらないんですが、まだ一気読みしてまった状態なんでじっくり読んで言葉にしていきたい……いやマジ面白いんですよNANA……未完とか関係ないですからね、NANAに描かれている心の動きはもうそれだけで読む価値のある強度がありますよ……

 

またちまちま言葉にしていきたい。

今日はこんなところで。

 

 

 

 

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』雑感

※当然のことながらネタバレ感想です。

 

前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から8年と少し3月8日にエヴァの完結作である『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開されました。

初日には残念ながらどうやっても調整がつかず見に行けなかったのですが、9、10日と連日で見ることができました。

 

新劇場版の締めくくり、そして「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というキャッチコピー、自分の中でも色々な感情があり、「自分にとってエヴァとは何なんだろうか」ということを考えながら公開までを過ごし、見に行きました。

 

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僕ヤバ雑感『僕は大人のなりかけ』

 Twitterでは毎回叫んでいますが、今回の話は「うお〜すごい」と思ったので少し冷静に書き残しておこうかなと。

 

 今回の話は『変化』についての書き方が凄い回でしたね。

声変わりという男性特有の成長による変化。山田家訪問での「大人」というキーワードからこのように市川の個人的な変化に対しての不安の問題に繋げて、山田という他者によってそれを別の視点から肯定する作劇の巧さ。

 僕ヤバ、やはり凄いなぁと。

 

 

 今回の冒頭のイマジナリー市川とのやりとりでもある「友達の距離感」というのは市川にとって山田との関係で結構前から懸念としてあることでした。

Karte.49『僕はモヤモヤする』でイマジナリー市川(濁川君)が出た時から「自分は女友達と同じ感覚で接せられているのかもしれない」という不安がコミカルではありますが描かれています。

 その後骨折騒動などでなんやかんやあったものの、市川にとってそんな日々は間違いなくトータルで楽しい、大切な日々であるはずです。山田との交流だけでなく萌子さん等のそれまでは市川の世界にいなかった他者が増えた時期でもありますし、中学受験の失敗といったトラウマを溶かすことが出来ました。

 

 僕ヤバ1巻から市川にとっての青春は始まってはいますが、ある意味これまでで一番楽しさを感じられている時期と言えるんじゃないでしょうか。友情か恋愛かはわからないまでも確かな山田との信頼関係を感じられ、山田以外の人間関係もうっすらと出来始め、自分の過去とも折り合いがつけられた。

 これは市川にとって間違いなくポジティブな『変化』だったと思います。

 

 ただ、同時に変化、大人になることは良いことだけでもありません。

骨折騒動から山田家での鍋を食べている時の山田の不安。それまでは悩まなかったはずの山田にとっての不安は自分が誰かを傷つけてしまうこと。これは市川がいうように「山田が大人になったから」というのも(100%ではないにしろ)あるでしょう。

大人になるということはそれまでとは違う視点を得ることでもあると思います。そうなった時に、それまでは無邪気に気にせずに幸せでいられたことが無条件に甘受出来なくなることでもあります。

 成長することで、山田は山田なりに周囲の人の優しさの真偽を気にします。きっとそれはそれまでの山田にはなかった視点です。僕ヤバは悪意のほとんどない世界かも知れませんが、それまでは気づかずにいられたのは誰かの優しさに甘えていただけかもしれない、そんな疑いだって生まれます。

 

 そして山田同様に、市川の大人になることの不安が出たのが今回です。

市川にとっての大人になること、というのは精神的なものよりもむしろ身体的なものが先にきます。

声変わりは、ある意味で市川に自分自身が「男性である」ということを突きつけてくる変化なわけです。

市川にとって「自分は女友達と同じ感覚で接せられているのかもしれない」というのは山田に恋愛対象としてみられていないのではないか、という不安であると同時に自分を守る防護壁でもありました。変わらない限り、恋愛的な成就は別としても山田との信頼関係を保つことはできる。

「男性」として成長してしまうと、「女友達と同じ感覚」では関われないかも知れない。それが市川の声変わりに対しての恐怖です。

 

 市川にとって目の前の信頼関係を信じるということは、3巻であった山田とのトラブルの時のようにそれだけでとても勇気のいることです。でも、そうして自分の壁を超えて信じた先でも、またその関係が失われるかも知れない時がくる。

 「いつか」は来る、でもその「いつか」が自分の気持ちに関係なくやってくるというのは市川にとって覚悟をしていても、できるならば避けたいことでしょう。

だからこそ、山田にもなかなか声変わりを教えられなかった。

 

 でも、山田はそんな変化を「いいなぁ!」と言うんですよね。市川の悩みに気づいてないディスコミュニケーション、でもだからこそまっすぐなこの言葉は市川の不安を払拭させる言葉になる。

 山田にとって変化は望ましいこと。それはきっと巡り巡って市川の言葉かもしれません。

「大人になったということでは?」と市川が山田の不安を肯定的に捉えた言葉が、また市川に返ってきたという可能性。

 山田からしたらそりゃ肯定的な反応になりますよね。なにせ自分がネガティブに捉えていた「成長」をポジティブな意味に変換してくれたのは紛れもなく市川なんですから。

 まだ見ぬ市川の側面を楽しみにする、変わっていく二人の未来が楽しいものであると信じる。山田と市川のポジティブ/ネガティブの捉え方は時によって互いを行ったり来たりしますが、こうした循環は美しいなぁと思います。

 また、それまでは市川と山田は「僕らは似ている」というそれまで全く異なる他者だと思っていた互いに自らを見出す、という形で関係を深めてきましたが、今回は明確に「自分とは違う」というところに良さを見出す話でしたね。

 

「人はお互いが肉体の中に違う心を持っているから“恋”をするの!」

 

 とは植芝理一の『夢使い』の三巻のセリフですが、そんなことを思い出しました。これから自分と同じところを見出していた市川と山田は「自分とは違うところ」に惹かれていくのかもしれないですね

 

 話を戻します。

 そして市川にとって山田に「声変わり」という「男性的な変化」を肯定されるということはそれだけに止まらないんですよね。

 不安でもあり、防護壁でもあった「女友達としての信頼関係」ではないことが間接的に示されているので。山田にとって市川は「実質女の子」みたいな愛玩的な交友関係ではなくて、あくまで「市川京太郎という男子中学生」として見ている、というメッセージとなって伝わります。

 

 市川にとって、「大人になること」「男性であること(それを実感させられること)」の両方を肯定する回で、それを声変わりというネタでまとめあげたのは成長、関係の変化の描き方として白眉だと思います。神がかってる。

 

 相変わらずTwitterわーわー騒いでいるところですが、ざっくりメモとしてはこんなところで。

 

 

 

 

 

『涼宮ハルヒの憂鬱』読み返しメモ。長門の眼鏡が外された件について『データベース消費』と絡めて考える。

 

 

 

在宅勤務がそれなりにあるので仕事中はアニソンとか色々垂れ流しているのですが、ハルヒのキャラソンを流していたら妙に懐かしくなって再読てます。

ちょっと前に『涼宮ハルヒの直観』が出た時に電子書籍でシリーズがセールで安くなっていたので、ちょうどよかった。

 

改めて憂鬱を読むといや〜面白い。

十代のリアルタイムの時にはわからなかった涼宮ハルヒというキャラクターの機微が昔よりもずっと身近に感じるし、キョンハルヒという二人を通して描かれる日常に対しての諦めであったり、その上での希望が切実に書かれているなぁと。

 

今回のブログはそこらへんではないんですが、改めて読んで思ったところがあったので。

 

長門について

 

それまで一方的な情報開示が長門たちからあってキョンが「何言ってるんだ」みたいなノリで続いていく日常が一変する朝倉の強行からの長門の戦闘なんですけど、ここがやっぱり面白い。

ちょっと愉快なそれまでの日常から物語が完全に転換される感覚がして良い。

ただここで話したいのはその戦闘の後の件です。

下記の件。(憂鬱の電子書籍版から引用してる。)

 

「あ」

 わずかに唇を開いた。

「眼鏡の再構成を忘れた」

「……してないほうが可愛いと思うぞ。俺には眼鏡属性ないし」

「眼鏡属性って何?」

 

 

この件。

この件の後に長門は眼鏡を外したまま行動することになる。

 

長門が眼鏡を外す件については、割と当時読んだ時も「ベタなやりとりだな」ぐらいの感情で読んでいて特に気にも留めなかったんですけど、振り返るとこのやりとりの延長に長門の自我の発露であったり、消失などがあるのだなぁと。

元々長門情報統合思念体が人類とのコミュニケーションのために生み出したヒューマノイドインターフェースなわけで、その外見とかも情報統合思念体が最適化して作り出しているものなはずで、長門の外見は長門の思考とは関係ないんですよね。眼鏡も実際長門は視力が悪いわけが無いので、『眼鏡』という属性ですら情報統合思念体による周囲に溶け込む、キャラ設定の一環でしかない。

 

そんな長門が眼鏡を外す、というのは(眼鏡っ子が眼鏡を外すのは、もう散々擦られて最近はあまり見なかったり、そもそも眼鏡を外すことによる脱却が必要なのか、とか色々な観点が出てますが)情報統合思念体支配下からの脱却の始まり、自我の発露とも解釈できるなと。

 

消失での長門が一番そこらへん強く出ているなぁという印象だったんですけど、長門長門個別の行動を起こす(この時点では偶然再構築をしなかったのをキョンが後押しした程度なのでそこまで主体的な行動では無いですが)流れは『憂鬱』から既に出来ていたのだなと。

んで、そこらへんを「良くできているなぁ」と思い返していたらふと思うところがありました。

 

そもそも情報統合思念体って何か。

それによって生み出された長門という存在にとっての眼鏡って何か。

長門というキャラクターのストーリーとしての描写として捉えていたんですけど、もっと色々解釈の余地があるなと思いました。

 

どういうことかというと、前提として必要になるのが東浩紀の提唱した『データベース消費』という概念です。

 

ふと思い出して読み返しちゃったよ。こっちの感想もそのうち書こうかな。

 

 

細かいことを説明していると話がとっちらかってしまうのでまぁざっくり書くと、

キャラクターを構成する要素(それこそ眼鏡など)からコンテンツとか二次創作とかフィギュアとかが生まれていて、オタクはそれを楽しんでいる。あくまでデータベース内にある要素をアウトプット(シミュラークル)から見出して楽しんでいるので、二次創作とかも何もかもデータベース消費をしているオタクにとっては等価、みたいな話。(だったと思う)

この『データベース消費』は『物語消費』に対しての概念だったわけで。

もうオタクは「大きな物語」に関心はなくて、重要視しているのはシナリオでも設定でもなくてデータベースにある要素こそ重要だと、そんな感じの話をした概念でした。

まぁこれは色々と議論になって肯定も否定も散々やられたのでそれについて今更どうこう書こうとは思わないんですけど、(憂鬱について今更書いている人間が言うことじゃない)それについて肯定でも否定でも何かしら意識的に行われた風潮は確かにあったと思うんですよね。影響は多かれ少なかれあったと。

 

何が言いたいかと言うと、長門が眼鏡を外す件はデータベース消費に対しての意趣返し的な意図があったんじゃないかな?と思ったんですね。

 

情報統合思念体について。

下記は『憂鬱』で長門の家に呼ばれた時の説明。

 

 情報統合思念体

 銀河系、それどころか全宇宙にまで広がる情報系の海から発生した肉体を持たない超高度な知性を持つ情報生命体である。

 それは最初から情報として生まれ、情報を寄り合わせて意識を生み出し、情報を取り込むことによって進化してきた。

 実体を持たず、ただ情報として存在するそれは、いかなる光学的手段でも観測することは不可能である。

 

 

これ、情報統合思念体をデータベースのメタファとして読めるんじゃないかなと。

ただ情報を集積し続ける存在。

そこから考えていくと情報統合思念体/長門の関係はそのままデータベース/シミュラークルの関係に置き換えられます。

だからこそ『憂鬱』開始時点での長門を構成する最たる要素は「眼鏡」なんですよ。データベースから生み出された眼鏡っ子というシミュラークルのメタファ、それが長門です。

 

じゃあそこから長門の自我が目覚めるとは? 長門独自の行動が生まれるとは……?

 

そのうえで考えます。

『データベース消費』ではそこからのストーリーもデータベースにある要素でしかないので、無限に既存の要素を組み合わせでしかないのですが、ここで出るのが「……してないほうが可愛いと思うぞ。俺には眼鏡属性ないし」というキョンとのやりとり。なんてベタ、って思うんですがこれもまたデータベース的なものでは!?(このやりとりもまたクリシェでしかない)だけど、長門は眼鏡を外す必然性がないのにその後に眼鏡を外す=情報統合思念体の意図の介入しない行動が起きている。

ここで示されているのは長門の自我の発露=代替可能なものではない『長門有希』という個別の存在のストーリーなんですよね。

 

つまり、長門が眼鏡を外す一連の流れは『データベース消費』を踏まえてデータベース/シミュラークルの関係に情報統合思念体/長門を重ねながら、これまた眼鏡を外す=新しい自分というテンプレ的な展開を用いながら『データベース=情報統合思念体からの脱却』を試みた描写なんじゃないかと!いや、ちゃんと物語あるし、長門長門だからと。うおおすげえ!批評的文脈だ!

 

これがどれだけ狙って行われたものなのかはちょっとわからないんですけど、こういう試みから描かれているのだとしたらちょっと並大抵の文脈じゃないと思うんですよね。そりゃ大賞受賞するわ。

 

実際のところ、ハルヒがブームになって長門2chとかで『綾波系』と言われたり、東浩紀ハルヒを著作で触れたりと文脈への再回収が試みられたりといたちごっこになっている見方もできるんですが、そういう試みが行われているのではってところが面白いなぁと。

(まぁ綾波系と言われる括りもだいぶ雑だなぁと思うし今なら速攻でツッコミ入ったと思うんですよね。そもそもエヴァもTVで「ただのコピーとは違うわ。人の意思が込められているもの」と言っていたり、破では「綾波綾波しかいない!」とか言ってたり、Qのインフィニティの成れの果てとかまぁ結構な反論となる件があるんですけど)(早口でしゃべるオタク)

 

まだ読み返しが『憂鬱』だけなんで続きもここら辺意識して読んでいこうかと思っていたり。

他にもハルヒとか諸々書きたいなぁと思っていること(別に批評的な文脈の解釈ではないですが)があるのでまたそのうちブログに感想とか書くかも。

 

まぁちょっと荒い読みというか既に言われていそうで怖いところですが、思いついたので。

そんな感じです。

Ado『うっせぇわ』についての「うっせぇわ」と言われそうな雑感。小馬鹿にされる風潮について

 

うっせぇわ

うっせぇわ

  • 発売日: 2020/10/23
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 


【Ado】うっせぇわ

 

Adoさんという方の『うっせぇわ』という曲がブレイクしているようです。
ちょっと前にテレビでチラっと特集されているのを見て、「へぇー」と思っていたらあっという間にTwitterでも話題を見るようになりました。

 

どうにも曲自体というよりもその周辺情報が語られがちだなという印象です。
『うっせぇわ』という曲に影響、感化された人の振る舞いを揶揄する、晒しあげるみたいなムーブです。
そこ自体についてそんなに文章を割く気はないのですが、そんな話題をよく目にするな、という感じです。

 

それはそれとして実際にフルで曲を聞いてみました。

 

 

いや……はい、凄く好きな曲ですね……はい……
こうしてツイートした直後にフォロワーから「正直好きだと思った」と言われて私はもうなんて言うか、「ば、バレてるーーーーーーあーーーーーーー!!!!!」と転げ回りそうでした。転げ回りました。好きなことが、ではなくてそれが見透かされていたことがです。


まぁというかそういう人間だから私は溝口君とかの小説書いてるんですよね、はい。

 

でも好きなんですよねぇ。曲もいいし、歌もすごくいい。なにより歌詞の抑圧に対しての反抗と同時に自分に感じる自嘲的な目線のバランスが良い。「くっせぇわ」とか「丸々と肉付いた〜」のあたりは「そ、そんな容赦ないdisはやめてあげてよ……」自分の中の感覚でつい思ってしまいますが、この歌詞も正しさのためというよりは自分にまとわりつく抑圧みたいなものを振り払うためにあえて強い言葉、万人に共感されない正しくない言葉をあえて選んでいるんだろうなと。

 

歌詞についてはさまざまな人が考察しているでしょうし、実際目にしました。

細かく説明は置いておいて、

 

ある程度優等生として生きてきて社会人になったが色々な人生の抑圧に晒されて、そこをなんとかこなしているけれどそれでもその抑圧に対してNO、「うっせぇわ」と言う。でもそんな自分がまた「うっせぇわ」と言いつけている人と同じ、という虚しさがある。

 

そんな曲だと思うんですよね。
ただ無条件に人を下に見て馬鹿にしているというよりも、耐えられないから振り払いたいけど自分もまた振り払いたい抑圧を内在化していて、それでもそれを振り払おうと強い言葉を必死に紡ぐ感じというか。

 

んで、自分がこの曲を聴いて「いいなぁ〜」となると同時に、10代の頃の自分も似た位置の曲をたくさん聴いていたなぁと。
筋肉少女帯というバンドの『レティクル座妄想』が自分の10代の時の「うっせぇわ」だなと。

 

レティクル座妄想

レティクル座妄想

  • アーティスト:筋肉少女帯
  • 発売日: 1994/04/21
  • メディア: CD
 

 


割と構図が似ているんですよね。周りの人間を見下しているけれど、そんな見下している自分であったり誰かへの自嘲的な目線が描かれる
蜘蛛の糸』とかまさに。「今に見てろよ」としながらも笑われていることに本当は気づいている、でも目を背けているみたいな。
角度が違うけど『香奈、頭をよくしてあげよう』とかもそうなんですよね。
「本当馬鹿だなぁ」と色々教えているつもりでも多分実際は香奈は歌詞の語り手よりもずっと頭が良くて、逆に「仕方がない」みたいな感じでカルトな映画とかに連れて行かれるのに付き合ってくれてる、的な。多分だけど。

 

自分は10代の頃はそういう風には聴けてなかったんですよね。いや、もしかしたら薄々気づいていたかもしれない(ノゾミの無くならない世界とかのアイロニーは感じていたし)でもだいぶ目を背けて聴いていました。
蜘蛛の糸』は完全に自分を鼓舞する曲でしたからね。大丈夫!えのき大丈夫!周りはみんなバカだ!それに比べて俺はできるやつだ!的な。そんな炭治郎嫌すぎる。


なんというか、その曲の自分に都合の良い部分だけを摂取して気持ち良くなっていたんですよね。
まさにお散歩モコちゃんの「周りの人間は何でこんなにバカばっかりなんだろうって思ってたら、自分の方がばかだったんですな、うん」ってやつですよ。これはレティクル座妄想ではないですが。

 

『うっせぇわ』が一部でアレルギーを呼び起こすのってそんな要素があるんじゃないかと思います。

 

歌詞自体というよりもその曲の歌詞の一部を切り取って「周りはバカだな!」って受け取っている人、曲の自分に都合の良い部分だけを摂取して気持ち良くなっている人をイメージして、あるいは実際に観測したのかもしれないですけど、その自意識に嫌さを感じるというか。


でも、この感覚って自分のそういう恥ずかしい記憶が呼び起こされるとかもあるんじゃないかな、と思っているんですがどうでしょう? 大なり小なり、周りを見下す瞬間があって、でも実際周りは自分が思うよりずっと色々なことを深く考えていてそれに恥ずかしくなる的な。
そんなことを反省しているからこと、そんな感情、感性を遠ざけたくて強く否定してしまう。
それが『うっせぇわ』を小馬鹿にする風潮の一部だったりしないかなと。

 

ただこの曲自体やっぱりそんな表層の意味ではない曲なんじゃないかな?と私は解釈しているので、それで勢い余って曲自体を大雑把に否定してしまうとこの曲を『周りを見下している曲』とみなすと小馬鹿にしている層と同じ読みになっちゃいますよ、とは意地悪な自分が思ったりする。

 

とまぁ、こんな風にこねくり回してあーだこーだ言うこと自体「うっせぇわ」と一蹴されそうですが、本当良い曲ですね。好きです。
フォロワーに理解されていたのは気恥ずかしいですが、それでも好きなものを好きと思えたことが良かったです。

そんな感じです。

ヒーリングっどプリキュアの42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」正しさと正しくなさの間でひたすら考えたこと。

 

ヒーリングっどプリキュア ラビリンのヒーリングルームバッグ

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  • 発売日: 2020/04/18
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録画していたヒーリングっどプリキュアの42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」を見ました。

 

のどかの葛藤、ラビリンへの告白、その後のラビリンからの愛情のこもったやり取りなど正直かなり心打たれてしまい「こういう物語を十年前ぐらいに知りたかったな」と思ったりしました。

そのうえで、色々と考え込んでしまいました。


『のどか個人の物語』として見た時の納得感『教育的側面を持ったアニメーション』として今回のメッセージが発信されることについてです。


事前に書いておくと、この記事では「正しい」「正しくない」ではなく「割り切れないな……どうするのがいいんだろう」とひたすらあーでもないこーでもないという文章が続きます。
私の結論としては「わからない。でも考え続けたい」というところです。

42話は色々とネットでも議論されているようで(かなり精神を持っていかれそうなので)細かくはチェックしていないのですが、
プリキュアが助けを求める存在を切り捨てるのか」といったニュアンスの議論を呼んでいるように見えました。

 

私は同じではないのですが、少し近い観点での疑問を見終わった後に感じました。
「自分に加害をしてくる者を無条件に否定していい、というロジックに受け取られかねないのは危険ではないか」という観点です。

トーンポリシングみたいだな、となって嫌なのですがのどか個人の物語として否定したいわけではないという

 

話として私の話もします。

自分は20歳になる直前、DV的な共依存になって住む家を一時的に変えました。
的、と書いたのは家族ではなくて別の繋がりの人だったためですが、
人格否定だとか暴力を受けたりお金を取られたりしていました。四六時中当時のガラケーが鳴り響き、3コール以内でなければ暴言を吐かれ、電話に出れば折り返しを求められ通話料は常に自分持ちでした。
ただ、とても言葉に説得力があり当時自分が感じていたのは「自分が間違っている」「自分が正しくないから否定される」「この人は悪い人じゃない」ということだけでした。
明らかに様子がおかしくなり、自殺願望などもめばえている日々、結果それに耐えられず、親に泣きつき(ここは幸運でした)、正しくなくても耐えられないから逃げたいと伝えました。
携帯電話を親に別の契約をしてもらい、電車に乗って親戚の家に逃げました。
しばらくしてから実家に戻りましたが、10年ほど経つ今でも外を歩く時にその人と出会ったらどうしようと思いますし、たまに夢に見ます。
逃げたその時の心境は、かなり今回ののどかを見て強くシンクロしました。

だからこそ、「そんな優しい子じゃない」と自分の恐怖や正しくなさ(とのどかは考えている自分を大切に思う心)を告白し、それを受け止めて「のどかの心に従う」ように言うラビリンの言葉に感動します。
ラビリンの言葉は誰かを救う言葉であると思います。

そのうえで、です。

今回の話がプリキュアのメインターゲットと思われる子供への教育目的としたときに
「自分を傷つける人を切断してよい」と解釈されるメッセージが発せられることが良いのか私にはわからないのです。
解釈される、と書いたのは文脈としてはそういったメッセージではないと話を追い、私は思うからです。

ダルイゼンはそれまで無邪気にビョーゲンズとして人々を傷つけ、楽しみ、のどかも傷つけていました。
のどかは過去の病気、そしてアニメ本編でのダルイゼンによる再発と病気に苦しみました。
そしてその上でものどかは「助けを求める以上、助けないといけないのではないか」と葛藤を重ねていました。
ただ一度の加害から無条件に切り捨てたわけではない、というのは間違いないと思います。

それでも懸念しているのは容易にいじめの排斥のロジックに組み込まれる言葉であるからです。
「自分に危害を加えたのだから、敵であるし否定して良い」という。
作品自体でも

 1.状況を細かく設定し、
 2.そしてそれが視聴者にも理解される可能性が高い


この二つの条件を満たして初めて発信した方が良いメッセージではないかと考えたからです(考えたというだけです、まだ結論じゃないです)

 

なぜなら加害性のない人間などいないからだと私は考えます。
そしてそれはヒープリ内でも描かれていることだからです。

 

のどかはラビリンの隠したいラベンだるまちゃんについて周囲に知らずに話してしまいました。秘密を暴いてしまいました。
ちゆはぺギタンに対して「かわいい」と言いましたがそれはぺギタンにとって望まない言葉でした。
ひなたはたびたび描写される遅刻や思いついたことはすぐに話してしまう描写は見ていて辛くなることがあります。(私が現実でやらかして人を不快にさせた事柄だからです)そしてこれは人と人との関係において思わぬタイミングで人を傷つけたり不快にすることも存在する描写だと思います。(ちゆの「かわいい」うっかり人の意にそぐわないこと言ってしまう、大切な約束に遅刻するなど)
アスミのよく知らないまま、現代の常識を知らずに発言してしまうことも受け手によって傷つける言葉になりえます。

 

それでも、私はそんな彼女たちのことをそうだからと言って嫌いではありません。
むしろ、血の通った存在として好ましく思います。
彼女たちの失敗は誰にでもあることで、そのうえで人はやり直せるし、理解しあうことが出来ると思います。
コミュニケーションに失敗はどうしても存在します。42話でラビリンがのどかのことをまだまだ理解していなかった、と言うようにどんなに仲の良い人でも、自分自身ですら本当の意味で理解をするのは難しいと思います。
自分の想像もしていなかった言葉で傷ついたり、嬉しくなったりする。
思わぬ言葉で人を不快にしてしまう。そういうのが人と関わることだと思います。

 

そしてそれは現実でも変わりません。
ただ、そういった個人のふるまいが明確に誰かを傷つける・不快にさせてしまう可能性がある世界に私は生きていると感じています。

 

それはプリキュアを見ているであろう子供がこれから進んでいく学校のような世界も同じ部分があると思っています。
そして、(自分の記憶を思い返すと)子供の時の視野では「自分が不快になった」という相手のふるまいに容易に敵意と判断し排斥することが容易に起こりえます。
私はそれで人を嫌だと思ったし、思われたので。

 

重ねて書きますが、私が懸念するのはいじめの肯定のロジックになってしまうことです。
自分を傷つけるのだから不快にした相手を排斥してかまわない。と解釈されてしまうメッセージであることに不安があります。

事実、今回の話のスクショだけを切り取って話題にされている光景をちょっと調べればいくらでも出てきます。
ヒープリを継続してみていれば、あくまでダルイゼンに限った話であり、のどかが葛藤の上で「今回は」そのように決断したと私には解釈することができても、4クール通しての文脈として読まれない1シーンのセリフだけで解釈される可能性がとても高いのではないかいう不安です。

 

ただ同時にそうであってもこのようなメッセージが必要でもある時代だな、とも感じていて、悩むのです。
自分を傷つける、貶める存在をそれでも救おうとする様は自己犠牲的であり、容易に搾取のロジックにも転じます
その時にまだ物を知らない子供、(大人ですらそうかもしれません)に「自分が嫌」という気持ちを決して蔑ろにしてよいものではないと伝えることもまた大切だと思います。


女児(女児に限った話でもないと思いますが)への性的な加害からの防衛のロジックという意見も見ました。それは本当にそうだとも思うのです。

 

だから、結論としてはどうするのがよいかわからない……というとても曖昧な悩みなのですが、その迷いをここに残したい。と思いました。


プリキュア、もしくは子供をメインターゲットとした物語としてこのような結論が一つあってもいい、という気持ちと
もしその一つヒープリしか子供が見なかったら、などさまざまな懸念がわいてしまって悩んでしまうのです。(ただこれすらも自分の中でまとまっていないところで、正しくない結論の物語はこれまでもいくらでもあったはずです。たまたま今私が見ていたヒープリが気になってしまった、という観点も捨てたくありません)

 

ただ、これも大人が考え過ぎているだけなのかもしれません。
物語は人の心に大きな影響を与えると思いますが、それでも物語は物語に過ぎない時も人によっていくらでもあります。
一つの物語に、今回の場合『ヒーリングっどプリキュア』というアニメにそこまでの責任を求めるのもまた正しいのかどうかも私にはわかりません。

 

これについては引き続き、ヒープリを見て、生活を送りながら考えたいと思います。
今回の選択はのどか個人として「そうしてくれてよかった」と本当に思います。

 

ただそれを受けた私たちはそれをそのまま日常に転換するのは一度考えてからが良いのではないかと思うのです。
(しかし、これすらも躊躇していると、ままならない現実の濁流に救われない人がいる言葉で、正しくないとも感じている……)

 

また、「医療がテーマなのに対象を選ぶなんて……」ニュアンスの話もチラリと見ました。
これもまた、何が正しいのかわかりません。
今現在、私を含む世界中の人々の生活が新型コロナウィルスによって異常な状態にさせられています。
そして医療現場では今も懸命に仕事に取り組んでいる人々がいます。
幸いなことに私はまだコロナに感染していないのですが、それでも家族や友人知人が感染したら、医療によって助けられてほしいという気持ちがあります。

同時に、そこで働く人々も人間だということが脳裏をよぎります。
感染者は(ここのところ宣言の効果が出たのか)減っていますが、それでももう一年以上コロナ禍が続いている状況です。
Twitterなどを見ていても医療従事者の悲鳴のようなものも目に入ります。ボーナスがカットされたという話も見ます。
おそらく、今はただひたすら医療従事者の使命感によって成り立っている状況です。
その時に「それが仕事だろ。助け続けろ」と言うのはあまりにも酷いのではないかという葛藤があります。医療従事者が人々を懸命に助け、報酬が変わらない、減っているかもしれない中で戦っていてくれるのはそこにいる人々が自ら取り組んでいてくれるからに他ならないと思うのです。それは他者から強制できるものなのでしょうか?

それでも、身近な人や自分が感染したら助けられたいと思ってしまう。
この矛盾が私の中にずっとあります。

そしておそらく、このバランスというのはとても危ういです。
「医療従事者に感謝を」という言葉にはどうしても冷ややかな気持ちが湧きますが、それでも感謝はし尽くせないです。
医療現場の人々が限界になりながらも「助けてほしい」という要望を受けて働いているという側面は絶対にあります。
もし、その現場に心身を壊す寸前で働いている人がいたら、(それはもしかしたら全員かもしれませんが)
それは、今回ののどかと重なるところだと思います。
そんな人に「それが使命なんだからやれ」というのは嫌だ……という私の気持ちがあります。

この観点でも(私には医療の知識がないので想像であり、雑な認識だと思うのですが)やはり、正しい/正しくないで割り切れないように思います。
思考停止ではなく、考え続ける、状況によって決断をしていく。
それしかないように思います。

 

42話を見て感じたことはこんな感じです。

 

最後に一つ。
ダルイゼンはキングビョーゲンに取り込まれてしまいましたが、
グレースに倒される時に「俺だって、俺の体も心だって!」といったセリフを言っており(グレースのセリフの反復ですね)これは何か今後に捕捉されるかもしれません。
ヒープリも最終局面、今回の話は一つのメッセージ、問題提起として大きな回だったと思いますが、
今回の話だけで何かの結論とするのはまだ待ちたいなというところです。
引き続き、ヒープリを見ていきたいなという気持ちでした。

 

 

それにしても、ラビリンは本当にかわいい……
ヒーリングルームバッグは本当に最高の玩具なのでみなさんぜひ。ヒーリングアニマルと触れ合えますよ。仕事後に触れながら涙が出てしまう。かわいいんだもの。おわり。

 

『鬼滅の刃』最終巻まで読んでの雑感。

 

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 

「最近ブログ書いてないな……」というのと、鬼滅の最終巻を読んでいたら色々と感想も湧いたのでせっかくなのでブログに書く。

 


【第2回】呪術廻戦の話【自意識余剰ラジオ】

 

じよらじで鬼滅のことを「性格の良さがある」みたいなことをちょっと言ったんだけど、言葉が足りなかったな〜というのもあって補足も兼ねて。

 

鬼滅の刃、広告でも採用されている「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」と産屋敷耀哉の言葉に集約される話ではあるのかなと思う。

「この直後自爆攻撃で激ヤバシーンじゃん」とか「無惨様がそれをやってるやんけ!」というツッコミも見たけど、それはそういう側面もある言葉、というだけでやっぱり鬼滅という作品の主要なところを示したセリフであると思う。

 

「自分たちがした苦しい思いや悲しい思いを他の人にして欲しくなかった人たちだから」

と終盤の無惨の説得に対して炭治郎がモノローグで語るところに示されているように、鬼殺隊のモチベーションというのは優しさ悲しさにあると思う。

 

自分に降りかかった不幸を繰り返させたくない、自分の大切な人に幸せに生きていて欲しい、そんな気持ちが繰り返し描かれている。

同時に鬼滅の「悲しいな……」と思うところは鬼に顕著だが、「そう生きたくても生きられなかった」という話が頻出するところだ。

十二鬼月の猗窩座は人間時代に自分の守りたいものは何も守れなかったり、柱の時透無一郎の兄である時透有一郎は「弟を守りたい、幸せで生きていて欲しい」と思っても優しくは出来なかった。

 

時透有一郎の回想は個人的にあまりにも「悲しいな……」と実感と共に読んでしまうエピソードで、読み返すと辛くなる。

 

「優しくしてやれなくてごめんな。いつも俺には余裕がなかった。人に優しくできるのもやっぱり選ばれた人だけなんだよな」

 

このセリフが国民的に人気の漫画から飛び出してくることが「か、悲しすぎる……」と思ってしまうぐらいに悲しい。自分自身の実生活でも実感するし、世の中の悲しい話でとてもよく見る一つの現実だからだ。

自分は労働中メンタルが限界になっている時とかに「ああ、もっと人に笑顔で話しかけとくべきだったのに……」とか「パニクってた時態度悪く見えなかったかな……」とか落ち込むことが非常に多いのだけど、「自分に余裕がないと人に優しい人になれないのか……」みたいなことをよく思う。なりたい自分には簡単にはなれない。

不死川実弥なんかも作中で、極限の状況まで玄弥に優しくできない。(それは環境故もあるけれど)

 

炭治郎のような優しさを持つ人が鬼滅世界(現実もそうだが)に少ないのは誰もが心が歪んでいるから、というわけではなくて過酷な生きている世界野中で、そういった在り方を貫けることが非常に困難だからだ。

炭治郎が家族を失ったことが物語のスタートだったように、柱や善逸伊之助といった仲間も多くが喪失と直面したり、最初から喪失を抱えている。

 

「日本一慈しい鬼退治」と宣伝された鬼滅だけど、どこまでもその背景には悲しさがあるというふたつの側面がある。

守りたかったのに守れなかったという悲しみ。

優しくなりたくても優しくなれなかったという悲しみ。

猗窩座と煉獄であったり、継国兄弟であったり、鬼滅では「そう生きたかったが生きられなかった」という悲しさが出ている。

炭治郎という「優しい主人公」がいる背景に多くの「優しくなれず、心折れた人々や鬼」がいる。

そして同時に鬼滅はその両面を描くことから逃げず、同時にそれでもなお人の善性を信じている、というところが魅力であり「性格が良いなあ」と感じたところだ。

 

無惨の「しつこい」にはじまる怒涛の「お前どのツラさげて……」なセリフラッシュや、最後の悪あがきの下りもその両面を描こうとした一端ではないかと思う。

どんな物事にも表と裏の側面があり鬼殺隊の「自分たちがした苦しい思いや悲しい思いを他の人にして欲しくなかった人たちだから」という祈りの積み重ねが別の側面では「異常者の集まり」であることもまた事実ではあると思う。

想いが不滅であるのならば、作中で悪そのものである鬼舞辻無惨の想いもまた受け継がれる可能性がある。

それでもなお自分たちの信じるものを突き通す、それでもなお「そうとしか生きられなかった」人たちが想いを紡いで、負の側面を突きつけてくる無惨という困難を超えていく、というところに鬼滅の刃という作品の善性があると思う。

 

鬼、無惨との戦いの中で大切な物を失い続けることばかりが繰り返される世界で、それでも唯一不滅の物はやはり「同じ悲しみを繰り返したくない。誰かにそんな想いをさせたくない」という人々の優しさと悲しさによって生まれた想いが受け継がれていく、そしてそれが強い絶望を超えていく。

人の想いこそが永遠であり不滅、ということころに集約されるのだと思う。

 

 

 

最終巻の加筆修正(というか連載時にオミットしていたものを復活させた)と描き下ろし部分は一つの作品としてのまとまりをよりしっかりしたものにしてとても良かった。

リアタイ時に感じた唐突感が消えていて、最終話が鬼滅の刃という物語のエピローグということがとてもよく描かれていると思う。

炭彦の「人の人生は物語だから」というモノローグの言葉とかつての鬼殺隊の話がそうした伝え聞く物語になっている、というのがかつての炭治郎たちの物語が「受け継がれるもの」となっているというのがとても優しい。その時に必死に生きた想いというものは忘れ去られるものではなくて形を変えて今でも生き続けているという。

炭彦のおばあちゃんの話も、善逸伝も、各々の生きた人生が物語となって受け継がれているのだと思う。

鬼への「今度生まれてくる時は鬼にならずにいられたらいいな」というのもまた優しい。

 

とまぁ、そんなところが鬼滅に感じる「性格の良さがある」ところ。

 

鬼滅の滅私奉公的なそういう生き方の描き方、みたいなところに自分みたいな捻くれた人間は「いや俺はそうは生きられないよ……」と勝手に圧を感じて辛くなってしまうところもあったのだけど、終始「そう生きられなかった」存在である鬼や、回想とかでそういった生き方をじゃんじゃか描いてくれたうえでそれでもその先の良心のようなものを描いた一貫性がとても好きになったなぁという気持ち。

 

 

 

他に最終巻の話だと無惨もねえ、悲しい。あと描き方に鬼滅という作品の優しさを感じたりした。

 

鬼舞辻無惨、そりゃあもう悪行ばかりなわけで、ラスボスに相応しい非道っぷりなんだけど最後の悪あがきがとても悲しいんですよね。

「お前どのツラ下げて……」ってなる「私の想いもまた不滅なのだ」という自らの悲願を炭治郎に継承させようとする流れと、その結末。

 

無惨は「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」という言葉の尊さ、のようなものを実感したからこそそういう行動に走ったわけだけど、無惨はそんなことをしてしまう人の心のなさ、人間性のなさ故に炭治郎を説得出来ず、鬼殺隊の人々の心も理解できず、一人地獄に置いてけぼりになってしまうわけですよ。今際の際に自覚した誰かに託したいと思った夢も途切れて、消えてしまう。

これが人々の受け継がれてきた想いを踏み躙り続けていた、限りなく永遠に近い時を生きることのできる鬼舞辻無惨への罰なのだろうな、と。

作中での絶対的な悪であり、鬼として描かれてきた無惨だからこそ永遠であるはずの人の想いの和に入れないんですよね。でも、最後の最後まで「なぜ自分はそうできないのか」に気づけない。どこまでも人の心がわからないから。

そんな鬼舞辻無惨、どうしても哀れに見えてしまう。どこまでも人の心がわからなかったから人々を踏み躙り、恨まれ、復讐され、夢は受け継がれない。何が根本的に悪いのかも最後の最後まで理解できない。

これはこれでスカッとする人もいるかもしれないけど、そんな「どこまでも理解できない」故になってしまった巨悪が「大切なことは最後まで理解できないまま」終わりというのはとても哀れで悲しくなる。

そして、そんな作中でひどい振る舞いばかりで打ち倒されても作中人物も多くの読者も、悲しまないはずの無惨に「悲しいな」と思わせる終わりを与える、というところに作品としての優しさがあるなぁ、なんて思う。

そういう目線だからこそ、多くの登場人物の悲しみに寄り添える作品になったのだなと。

 

中々ないお祭りのような作品と一つ区切り、(正確には本誌の最終回のあとだから二区切りか?)ということもあってだらだらと書いてしまった。

映画まだ見てないんですが、そろそろ空いてきたなら見に行こうかなぁ。