えのログ

人生五里霧中

上遠野浩平『恥知らずのパープルヘイズ』を読んだ、というのと『ジョジョ』の色々な思い出語り

 
『恥知らずのパープルヘイズ』のネタバレはあまりない。とはいえ最後まで読んだ上での感想はあるので、「読んでない話の感想すら知りたくない!」ってレベルの人は気をつけてほしい。
 
読んだ本の話の前にジョジョの思い出語りを書く。
ジョジョ五部は結構思い入れのある部だ。なにせ初めてジョジョに触れたのが五部だったのだ。

 

小学生の低学年の頃だったと思うのだけど、学校が終わってから児童館に行く生活をしていた。
図書室みたいなフロアがあって結構漫画も置いてあったので、そこで僕は手当たり次第に漫画を読んでオタク的土壌を作っていくことになる。
ジャンプとかも一週間遅れとかで入っていて小学生でコロコロコミックと稀にボンボンを読んでいた僕にとってジャンプはとにかく「新しい」楽しみを与えてくれた。
 
ジョジョはその中でも、とにかくインパクトのある漫画だった。
 
小学生になったばかりの自分のコンテンツ経験はバイオレンスとは無縁の(もしかしたらそういう要素のある夕方アニメとかには遭遇していたかもしれないが、わかっていなかった)ものばかりだったのでページを開いて仰天する。
メタリカ戦だった。
ページを開いたら少年の顔から針がめちゃくちゃに飛び出ている衝撃的な絵面だった。
 
「なんだこれ!」
 
ショッキングすぎるシーンに呆然とするし、何が展開されているのかも全然わからなかった。ただ、「なんか不利な状況で苦しんでいるし、この少年が主人公の漫画なのかな?」なんて漠然と考え、つい読み進めていった。まぁ、その漫画で主人公かと思った少年はドッピオなので主人公どころか……って感じではあるのだけど。
 
悲しいかなオタクはどうあがいてもオタク、気味が悪くて衝撃的な漫画だったのに、その衝撃を「面白そう」なんて思ってめちゃくちゃにジョジョを読み解いていく。
ドッピオのエピタフとキングクリムゾンの腕、リゾットのメタリカがそれぞれの持つ『能力』であることを、数話の情報から読み取って、戦っている理屈を解読していく。
小学生の時のフットワークはすごい。今じゃ、一巻の一話から順番に読んでしまう。
でも当時は途中からでもジョジョに夢中になった。
 
そのままリアルタイムで読み進め、途中から読み始めたのにめちゃくちゃ楽しみにしながらジョジョ五部最終回まで駆け抜けることになる。(児童館にある程度前のジャンプもあったのでノトーリアスBIG戦ぐらいまでは遡って読んだ)
 
同時にジャンプでジョジョを「絵が変」とだけ言って読まない小学生の頃の同級生達に凄まじい憤りを覚えていた。
僕はワンピースとかよりジョジョが好きだったのだけど、当時僕はワンピースもしっかり読んでいたのに、ワンピースだけ読んでジョジョを絵だけで読むことを放棄した連中が「どうせそれつまんねーよ、ワンピースおもしれー!」みたいなことを言っているので殺意しかなかった。ワンピースだけじゃなかったかもしれないが、ワンピースが代表であった気がする。なんなんだあいつら。
「なんでどいつもこいつも漫画をちゃんと読まないんだ。他のも読めよ他のも!!目付いてんのかよ!!!っつかーそれしか読まないで「これ面白い」ってそれしか知らねーだけだろ!!頭使わないで生きてんのかよ!!!!バカじゃないのか!!!クソッ!クソッ!!クソッォ!!!!!!!!」
小学生低学年の時からそんなんだった。後にコミックスを読んだ時に共感したキャラクターはギアッチョです。ルサンチマンしかない小学生、本当にバカなのは僕だろう。どうしようもないな。ワンピースに恨みはないですよ、いや、ごめん、感情的には色々ある(色々ある)。
 
そうしてジョジョ五部完結と同時か、その前あたりからちょくちょくコミックスを買うようになる。 
なぜか「まだ読んでいない方を読んだ方が面白いから」みたいな理由であっちこっち別の巻を買っていたので、しっかり五部を読むようになるのは2〜3年後になった。ちなみに石仮面の描写とかがある1部のあたりのコミックスは低学年の時に買ったのだが「グロいから」みたいな情操教育の観点から親に一度捨てられた記憶がある。結局また集めたので無駄だったなぁ……
 
話がズレにズレたがそんな風にジョジョ五部はジョジョを知ったきっかけの部だし、それぞれのキャラクターのリアルタイムで愛着を持っていったので特に思い出深い。
ジョジョ自体、今では大人気コンテンツだが小学生の時の自分にとって誇張抜きに「自分しか魅力をわかっていない、周りがわかってくれない」みたいなコンテンツだったので結構、僕にとってのジョジョというコンテンツ』への距離感は特殊だった。
小学校高学年のあたりでインターネットに触れて、ジョジョが語られている様を見ると「この人たちはわかっている!この人たちの方が詳しいすごい!」みたいになったし色々な個人サイトの漫画でジョジョパロが描かれているのを見ると「自分は“わかっている側”なのだ」みたいな歪んだ承認欲求が満たされたりもした。
 
ただ、十年ちょっと経つとだんだんと状況も変わってくる。
 
深夜アニメはオタクだけが見るコンテンツではなくなった。
インターネットが普及して、まとめブログとかから誰でも2ちゃんの情報にアクセスするようになった。
コンテンツはどんどん共有されて、ジョジョパロは「ごく一部の人だけが」が知っている暗号のような存在ではなくて「誰でも知ってるエンタの神様の一発芸」みたいなポジションになっていった。*1
 
こうなってくると全く面白くない。
なにせ(あくまで偏見だが)「ジョジョは絵が気持ち悪いじゃん」と言って小学生の僕が力説したのに読まなかった人種が平気で人の神聖な領域だったジョジョを踏み荒らして我が物顔で語り出すのだ。
「僕の……僕のジョジョが!」みたいな気分だった、そもそも僕のものではないのだが。
 
そんな風にだいぶ拗らせてしまっていたものだから、ジョジョがアニメ化した時(いや3部はその前にOVAなったけど。)も「う、うーん……」みたいな感じになっていた。「原作厨」みたいな感情がとにかくあった。(厨っていいかたももう古いな……)
 
僕がジョジョに限らず、好きなコンテンツのアニメ化自体にやや乗り気になれない時期だったのもあって、最初は全くノータッチだった。
友人の家で録画されたジョジョを見ても(いや、このセリフのテンポは違うでしょ……)みたいな自分が漫画を読んだ時のテンポ感との不一致が気になり、またとにかく難癖つけたい気分だったのか「いや、アニメなんだからゴゴゴとか付けるのはどうなんだよ」みたいなめちゃくちゃな理屈でアニメに対して不快感を持っていた。(あくまで当時だけど)
 
自分の中での『ジョジョ』という領域を奪われたくなかったのだと思う。自分の視点と荒木先生の書く『ジョジョ』だけがあればいいや、ぐらいの感覚がそこにあった。
 
なのでジョジョトリビュートか何かの一つで出された『恥知らずのパープルヘイズ』にも中々手が伸びなかった。
「漫画でも荒木先生が書いてるわけでもない小説だし……」
そんな気分で全く読んでいなかった。ジョジョの小説を読むのはある種の信仰心みたいなものへの裏切りとすら感じていた、なんだその宗教。
 
ただ、喜ぶべきか、悲しむべきか、時間の経過は色々なものに距離を作る。
多分最近は、妄信に近かったジョジョへの感情も距離ができたんだと思う。
ジョジョ自体は今でも好きであるものの、ジョジョは自分のものなんだ!俺の中に入ってくるんじゃない!」みたいな気持ちはだいぶ消えた。アニメは追っていなかったが、「四部はアニメになったらたしかに面白いだろうな」みたいな気持ちになりながらアニメ四部の評判をみていた記憶がある、いや、それでも当時みなかったのだけど。*2
 
それでもって五部アニメ化である。
不思議と五部のアニメを見ることに対しての不安感はなかった。
純粋に「ああ、五部がアニメになるのか。見てみたいな。アニメ化楽しみだな」とまで思った。
TwitterでPVのような映像が流れてきた時はワクワクすらした。
 
最近ではNetflixで僕はジョジョ五部を見ている。
コンテンツに対してほどよく距離が取れたからか、自分が一層俗物になったからかはわからないけれど、アニメのジョジョ五部はとても面白い、面白いと感じることができる。
改めて五部を読み返したうえでアニメを見ても、原作との違いも素直に「ああ、こういう風にアレンジするんだ」と楽しむことができる。
 
そうしていた時にTwitterを見ていると『恥知らずのパープルヘイズ』の話題をみた。
中々評判が良い、それに自分の好きな五部だ、どうやらKindle版もあるらしい。
 
なのでKindle版を購入、読んでみた。
最高だった……
 
あらすじとしては五部本編終了後、フーゴブチャラティたちから離脱したことから、「組織への忠誠を示すため」新パッショーネからかつてのディアボロが支配していた時代の負の遺産である麻薬チーム(正確にはその内の一人)の暗殺を指示される。
その麻薬チームとの戦いの中でフーゴはかつてのブチャラティとの出会いや、チームのメンバーとのことを回想し、ブチャラティが組織を裏切った時に自分がついていかなかったこと、について思いを馳せていく、といった感じ。
 
ブチャラティについていかなかったのにもフーゴなりの理屈があって行動であることが説明されていたり、フーゴ視点でブチャラティやチームがどのような存在だったかが、原作の要素を拾いながら語られていく。
 
ジョジョが小説になる」ということにあたって僕がもっていた懸念点はほぼ完璧にカバーされていた。
擬音を突っ込むわけでもなく、キャラクターの『奇妙さ』みたいな存在感や独り言、会話の間は小説媒体としてしっかりと置き換えられていたし、スタンドバトルの『奇妙さ』も敵のスタンド能力を突破していく下りもしっくりくる。
様々な他の部の構成要素もまた話の中に盛り込んでいて、「おおこの要素入れる(拾う)のか〜」なんて楽しみもあって、かなりジョジョ本編への愛情を感じる出来になっていた。
 
キャラクター面ではフーゴのキャラの掘り下げはもちろんのこと、五部本編終了後のジョルノやミスタ、フーゴの視点から回想したトリッシュナランチャアバッキオ、そしてブチャラティのことを原作の描写を丁寧に拾い集め、話へと組み込み構築している。
ジョルノなんかは「ああ、ジョルノはたしかにこういうカリスマを持った人間だな……」と不思議と納得のいく描写に感心した。ジョルノの描写がかなり面白くて、ディオの息子という要素はあまり本編では強く感じなかった(少なくとも表面上は)けれど、パッショーネのトップに立った後の振る舞いや、人々に与えた影響を漫画以外で描写されると『人を惹きつけるそのカリスマ』みたいのは「あぁ〜ディオの息子なんだなぁ」と納得いく描写だった。ジョースターの血統というか意志を持ちながらディオの息子としての側面も持っているのがジョルノなんだなぁ。
 
同時に本編後のジョルノがやったであろうナランチャへのフォローも本編で(想像はつくけど)語られなかった行動なんかも読み取れたのが良かった。
他にもフーゴアバッキオの関係なんかは本編では語られてこそないものの「本編の描写から逆算して考えるとそうだよな」という納得のいく形になっていて、再構成の巧みさが光っている。
 
改めて『恥知らずのパープルヘイズ』で語られるフーゴの視点から再構成された人物描写を通じて「あぁ、五部はこういう話でもあったのだな」みたいな感銘すら受けた。
 
僕はジョジョが好きだったし、五部は本当に好きであったのだけど、初めて触れたのが小学生だったというのもあって「無条件に作品を愛してしまう、妄信してしまう」みたいな状態で小学生の時に受けた感覚から進めて「話の一つ一つの要素を読み解こう」みたいなことをやっていなかったなぁということに気づいた。別に全てのコンテンツをテーマごとに分析する、なんて法律はないわけだけど、ジョジョというコンテンツが持つ自分の愛着にしてはコンテンツに対して小学生の時から、それこそAmazonの作品紹介にあるように『一歩を踏み出すことができない者』であったように感じる。いや、そういう浅い意味でないことは百も承知だけど。
 
『恥知らずのパープルヘイズ』は踏み出さなかったことで、とても大きく貴重で、そして取り返しのつかない物を喪失してしまったフーゴが、改めてその喪失を実感し苦しみながら、同時に救済される物語であると思う。
フーゴが喪失してしまった物の重さ、それが本編を通じてとてもわかるだけでなく、だからこその最後の救済がとても感じ入るものがある。
ラストのフーゴが救済された時、というべき場面でのやり取りはどうしようもなく泣けるものがある。
『一歩を踏み出すことができない者』であるフーゴがどのようなことを考え、どのような結末に至るのかはここでは書かないけれど。
 
アニメも改めて楽しみになったし、色々五部について考えてしまう一冊だった。
「五部を読んだけれど読んだことない」という人や「今アニメで追っている」という人も、五部を完走した時に読んでみるのも良いかもしれない。
 
やっぱりジョジョ好きだなぁと感じた一冊だった。
ジョジョリオンも途中で読むのが止まってしまっているし、読み直したいな。
 
今日はそんなところで。

*1:いやもはやエンタの神様自体古いが……

*2:最近ネトフリでアニメの四部もチラチラ見てる