えのログ

人生五里霧中

ID:INVADED イド:インヴェイデッドの富久田の数唱障害についてあれこれ考えてた。

 

 

・ちょっとタイトルについて考えていたので整理のためにメモ。

 

・考えたきっかけはイドの富久田と本堂町の会話、「何かを失うことで自分が完成するなんて」というセリフ。

 

・富久田と本堂町の穴については元ネタはまぁロボトミーだと思うのだけど、他にもあるっぽいなと考えて色々調べたり見返したり読み返したりしていた。

 

『身体完全同一性障害』というものが存在することを知った。

ja.wikipedia.org

 

ネットで調べられた範囲だとこことかこれとかこの記事

gendai.ismedia.jp

 

五体満足な人間が手足等を切断することを望む、というもの。いくつか調べたけどあまり情報がない。もっと深く知りたいけどとりあえず概要はそういったものらしい。

 

・今この本をとりあえず取り寄せている。早く届かんかな。イドについて、というよりもこういうことについてはこれからもっと真剣に勉強した方がいいな、とも思っています。最近、強く。

 

 

・話を戻す。他にも考えたりしたいことはあるけどこの記事ではイドについてだけ書く。

 

・それでまず考えたのが富久田の『数唱障害』中々直接ヒットしないからこれが元ネタなのかと考えた。(架空の障害か?と思った。)だけどさらによくよく見てみると強迫性障害の中に『数唱強迫』はあるっぽい。ただこれはジョジョ五部のミスタ的な感じっぽいのでドンピシャではないのか? 概要を調べた感じだと、これも元ネタではあるけどイドのアニメの中で触れられていたところと完全に一致はしないか?

 

・それで仮説。そのワードで一発で出てこない障害として『数唱障害』とメジャーには呼称されない障害を設定したのでは?

→後述もするけど、意図的にこの名称、直接的な検索では出てこない(=架空のものと思わせようとしているのでは?)障害にしたのは安易なラベリングの助長の防止のためかなと。

→『数唱障害』持っている人間が皆人に穴開けると思われちゃまずいでしょ的な。(2話の富久田逃走の流れ、『羊たちの沈黙』でのレクター博士の身代わりでの逃走オマージュっぽいけど、あれもちょっと差別助長するって話もあったらしいし。)

 

 

・んで、「何かを失うことで自分が完成するなんて」というセリフ。富久田、本堂町はドリルで自らの頭に穴を開けて、世界と調和することができた=完成、完全になった。

 

・『身体完全同一性障害』で語られたような手足を切断するということで完成する、というモチーフは舞城作品でも実は過去にある。

『暗闇の中で子供』

 

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

 

 

 そう思えるのも、きっと俺の手足がなくなったからだ。俺は多分、陽二に俺の手足を切り落とされると同時に、俺の持っていたしょうもないこだわりとかしがらみとかも一緒に切り落とされたのだろう。だから、そう、俺ははっきりとこう言える。あの手足の切断は、俺の人生に起こった最高の出来事だったのだと。

(中略)人間というものは、たまには手足を切断されて救われることだってあるのだ。 (暗闇の中で子供 P.465)

 

・『暗闇の中で子供』はデビュー作の『煙か土か食い物』の続編でありながら、これは文庫化していない。読んだときは「ここまではちゃめちゃやってたり、テーマを作中で語ったら出しにくいのかな」って思ったけど、『身体完全同一性障害』についてあまりにも直接的に引用しているから、というのもあるのかもしれないと思ったり(これは穿った見方かもしれないが)。

 

・なんで直接的に引用しているとダメなんじゃないかと思うかという点について。舞城王太郎作品では他者との断絶、みたいなのも書かれている。『短篇五芒星』の『美しい馬の地』、『キミトピア』の『やさしナリン』とか。

 

短篇五芒星 (講談社文庫)

短篇五芒星 (講談社文庫)

 

 

キミトピア

キミトピア

 

 

・この辺はある種の人間の思考の偏りについて書いている、と思うんだけどこれについて『男と女』とか『年代の差』とか『障害』というラベリングをしていない。どうしてかというと『やさしナリン』の冒頭で言っていることが結構わかりやすいのだと思う。

 

 葉っぱ、では目の前のその葉っぱを指し示すことはできないのだ。

 同様に私は中辻櫛子であって《女》としてそこに在るわけではなく、同じように《妻》も《母親》も《主婦》も私の本質ではない。小説を書いているけれども《小説家》というのが私の全てではないし、普通名詞以外にも私は《かんざしカナ子》という筆名を持っているけれども、それは私を指しても私自身を完全には表さない。私はそういう名刺を身にまとっているだけなのだ。(キミトピア P.8)

 

「人間に勝手に文脈付与して読んだ気になってもそれがその人の全てじゃないんだぞ」みたいなことだと思う。しっかしかなり痺れる文章冒頭から書いてるな、って読んでて気持ちよくなってしまった。

 

「他者から見た文脈に縛られる必要はない、それが正しいとは限らない」的なのは『ビッチマグネット』とかいろいろな作品で書かれている。(これ多分ミステリの多重解決を人間の機微に当てはめて思考を展開したのかなーとか思うんだけど、ここはもうちょっと考えていきたい。)

 

・ちょっとズレた。だからこそ『身体完全同一性障害』が露骨な『暗闇の中で子供』は文庫化しないのかなーと。ある種の文脈の押しつけ=差別の助長になってしまうので。また、ある意味一般的に普及した名称の文脈を、人間に当てはめること、というのはアンチ文脈的観点でいくと使うのが難しい気がするので。

 

・そういうわけで富久田の『数唱障害』これは半オリジナルの呼称なのかな?と思ったり。(わからん『数唱強迫』以外で上記名称でもしちゃんとあったら教えてもらえると)それでその源流に『暗闇の中で子供』でモチーフになっていた『身体完全同一性障害』があるのでは?と思った。

 

・なので、この時から「何かを失うことで自分が完成するなんて」という会話のモチーフはあったと思われる。

 

・そこでちょっと改めて1〜2話をみて思い出す。富久田の殺意の世界はバラバラの世界。バラバラだけど繋がっている。バラバラであることが自然な世界だ。バラバラであること、欠損があることが自然な世界、富久田自身が無意識で完全だと感じている世界がそうである、ということにこれはそのモチーフがで連想元では?と考えたりした。

 

・んでまとめると

 ・富久田の『数唱障害』は強迫性障害などを下敷きにした半分オリジナルのことでは?(もしくは本当にめちゃくちゃマイナーどころを引っ張った)

 ・富久田、本堂町の「何かを失うことで自分が完成するなんて」という下りからロボトミーだけでなく、『身体完全同一性障害』的な発想が流れが(自分には)見えるから。

 ・そしてそれが直接的に描かれている『暗闇の中で子供』以降の作品ではそういった事柄についてより抽象度を上げて描かれている=ラベリングによる安易な文脈付与を避けているのでは?

 ・というのが富久田の『数唱障害』という設定の流れかな?と。

 

って感じ。

 

 

・他には富久田と本堂町の穴がどういう風に二人の結びつきなのか、とかも考えていたんだけど書ききれないのでメモ代わりのツイート貼っておきます。

 

・ここら辺についてはもっと考えていきたい。

 

 

 

 

・あとここら辺についてもちょっと考えている。(今回の記事とは関係ない。)

 

・まだまだ舞城作品を読んで考えるぞ、と思った一日だった。