えのログ

人生五里霧中

『巨神兵東京に現れる』の言葉が舞城王太郎なことについてあれこれ考えてる

 

 

・最近の舞城マイブームの中で「Qの開始前に流れる『巨神兵東京に現れる』も舞城なんだよなー」と色々思い出してたらちょっと最近の舞城深堀りの流れで色々思うところがあったのでメモ。

 

・Q前にエピグラフ的に入れられている短編作品なわけなんだけど、当時は「なんで舞城なんだろ」程度でほーん、と見ていたのだけど、改めて考えると結構Qのテーマ的にも意識的に舞城王太郎を起用したのでは?みたいなことをちょっと思う。

 

舞城王太郎作品を読んでいて最近自分が特に好きな点なんだけど、「ある物事に対して多様な文脈=読み方が存在することを、語り手の視点では語り手の文脈として物語をまとめつつ、別の文脈があること/別の文脈で生きられることを意識している」的なところがある。

 

・例えばビッチマグネットのラストではこんな文章がある

 

ビッチマグネット(新潮文庫)

ビッチマグネット(新潮文庫)

 

 

 (前略)友徳はビッチマグネット。

 でも弟よ、それは物語で、自分もしくは他人による捏造の可能性もあるのだ。

 そしてその可能性は私もお母さんもお父さんも全ての人間が抱えているものなのだ。

 

・『ビッチマグネット』では弟がビッチを引き付けてしまう、もしくは付き合った子はある種のビッチにしてしまうビッチマグネットなんじゃないかって言われるんだけど、それはあくまで『ビッチマグネット』という作品の中で語り手である香緒里や周囲の人々(あるいは弟自身)が見た文脈でしかないという。人間の多面性の話をしている、と解釈している。

 

・この思考はかなり他の舞城作品でも見受けられて、短編だとキミトピア『やさしナリン』とか『トロフィーワイフ』あたりが直球で似たことを言っている。他者から貼られるラベルがその人そのものとは限らない、的な視点。『世界は密室でできている。』なんかも菅原悠の《誕生》《成長過程に必然的に起こる親との衝突》《成長の最終段階にある親との和解》《新しい家族の形成》の四枚の絵がしょうもない四コマに仕立て上げられていたりする。これもただそこにある物事が別の文脈として消費された、って話だと思う。実際、友紀夫も自分の人生をそこに重ね合わせてしょうもないオチにならないようにという祈りで終わるし。さらにそもそもでいくと、『煙か土か食い物』の丸雄なんかもそういう人間理解のもと描写されてるとも解釈できる。他にもたくさんある気がする。

 

キミトピア

キミトピア

 

 

されど私の可愛い檸檬

されど私の可愛い檸檬

  • 作者:舞城 王太郎
  • 発売日: 2018/11/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

 

 

 

煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)

 

 

 

・と、いうのもまぁ自分の恣意的な文脈とも取れるんだけど。

 

・とはいえそういう描き方の側面を持った作家と捉えることができると思う、舞城王太郎

 

・んで巨神兵に話を戻す。巨神兵は弟にしかみえない《警告》が訪ねてきて、世界の危機とかについて言われるんだけど結局それを人に知らせきれずに畏れの象徴としての神(巨神兵)がやってきて世界がめちゃくちゃになる……という話が展開される。

 

・ただそれが後半で急に希望を持った観測が始まる。

 

第七の日、災いは仕事を終え、安息の喜びの中で静かに泣く。

世界の意志なんて知るものか。神の気持ちなんて構うものか。終わる世界の中で私以外の存在に希望を抱きながら、私は生き、逃げながら待っている。

これが、これから始まる火の七日間である。

新世界の訪れの前に、巨大な炎がやってくる。

 

・前半では《警告》をいかせなかった失敗、という文脈で物語が展開し、映像としては巨神兵によって滅ぼされる世界が描かれていてそれはもう滅亡まっしぐらなんだけど、語り手である『私』はそれに違う文脈を見ている……という風に解釈出来ないかな?できる気がするんだけど、どうかな?

 

・『巨神兵東京に現れる』Qの前に持ってきたのは破→Qの間のことをイメージで伝えるため、的な説が主流で実際自分もだいたいそうだと思うんですけど、前述した自分の解釈で巨神兵東京に現れる』を見るとQという物語自体の要約とも取れると思うんですよね。

 

・Qでシンジは気がついたら世界がめちゃくちゃになっていて、カヲル君に言われて槍でやり直そうとするけど「なんか違う」ってカヲル君が言う警告を無視して槍を引っこ抜いたら盛大に失敗して大変なことになって目の前でカヲル君の首ぶっ飛んでアスカに引きずられ黒い綾波と三人で遠くへ歩いて行って「つづく」なわけじゃないですか。

 

・自分はこのエンディングを結構ばりばり希望の終わり方だと見ているんですね。散々Twitterとかラジオで喋り散らかしたんでざっくり書くとエヴァパイロットとしてじゃなくシンジとしてミサトさんとかアスカとか他者に必要とされている」的な希望があると思っているんですね。エヴァに乗らない自分に価値がない、的な思想があった過去から見たらめちゃくちゃな進歩(ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 YOU CAN (NOT) ADVANCE.だ!)じゃない?って解釈。まぁこれも文脈、というか自分の解釈でしかないんですけど。

 

・ただ実際シンジの目線だと全部失敗した挙句カヲル君が自分のせいで(いやゲンドウが悪いんだけど、あくまでシンジ目線では)死んで……と希望なんてねえよ何がQだよ状態なわけで。

 

・ただシンジ目線では全く理解出来ていない、シンジへの優しさ(いやそれでもシンジ目線では過酷なんだけどそれでも)があの世界には実は存在している、という見方が出来るのがQだと思うんですよね。ミサトさんはシンジが受ける表面的な印象とは裏腹な心情があるからこそスイッチを押せずシンジを逃すし、アスカは捨てずにプラグから引っ張り出してしまう。

 

・この文脈=読み方によってそこにただ存在する物事の希望と絶望がひっくり返る、という性質が『巨神兵東京に現れる』と重なるという話。

 

・だからこそ新劇場版で飛び抜けて解釈に困る作品であろうQ冒頭に『巨神兵東京に現れる』を置き、それに舞城王太郎が言葉を書いたのではないか……

 

Qのそういった多面性が意識的なものであるのならば、その多面性を意識的に書いてきた、と読める舞城王太郎が『巨神兵東京に現れる』の言葉を担当するのも納得ではないか……なんて思ったんですよね。

 

・新劇場版の英題も常に多面性を含んだものとも言えるし。YOU ARE (NOT) ALONE.YOU CAN (NOT) ADVANCE.YOU CAN (NOT) REDO.と。

 

・そんでもってQの象徴的な言葉。

 

「希望は残っているよ。どんな時にもね」

 

・これがQだよ!!!!!!!!!!!!(机バァン!)

 

 

・終わり。いつもエヴァ側面からばっか考えて見てしまっていたので舞城側面から考えたらこんな感じかな〜と。最近改めてQ見たらだいぶ自己言及的な側面の色が強いヱヴァだなぁとも思ったのでそう言った面も舞城を起用したのかもしれない。もしくはエヴァというコンテンツ時代庵野監督のプライベートフィルム的な読み方がされがちな作品(俺はそう読みがちでもある)でもあるし、だからこそ覆面作家かつ私小説的な読まれ方を煙に巻く小説の書き方をしている舞城を起用したのかもしれない。(これについても書くと長くなるんだけど舞城王太郎の小説は『舞城王太郎が書いた小説』でありながら『作中登場人部が書いた小説』であることもあって、小説から「こういうことを書くってことは作者の人格は〜」みたいな解釈をしようとすると別の小説の登場人物の人物像に回収されたりする)あとこれは全くの与太話としてしか話してないんだけど「舞城は庵野では!?」みたいな与太話を友達としたりもしたのでそういう妄想を重ねると完全に作品から人物像を解釈することが不可能になり……というのは深読みすぎる。

 

・てか冷静に考えるとそんぐらい深く考えて起用してる可能性の方が高いよね……プロですし……8年弱経ってからこうしてわーわー書いてる俺は……俺は……

 

・今度こそ終わり。