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人生五里霧中

『鬼滅の刃』最終巻まで読んでの雑感。

 

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 

「最近ブログ書いてないな……」というのと、鬼滅の最終巻を読んでいたら色々と感想も湧いたのでせっかくなのでブログに書く。

 


【第2回】呪術廻戦の話【自意識余剰ラジオ】

 

じよらじで鬼滅のことを「性格の良さがある」みたいなことをちょっと言ったんだけど、言葉が足りなかったな〜というのもあって補足も兼ねて。

 

鬼滅の刃、広告でも採用されている「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」と産屋敷耀哉の言葉に集約される話ではあるのかなと思う。

「この直後自爆攻撃で激ヤバシーンじゃん」とか「無惨様がそれをやってるやんけ!」というツッコミも見たけど、それはそういう側面もある言葉、というだけでやっぱり鬼滅という作品の主要なところを示したセリフであると思う。

 

「自分たちがした苦しい思いや悲しい思いを他の人にして欲しくなかった人たちだから」

と終盤の無惨の説得に対して炭治郎がモノローグで語るところに示されているように、鬼殺隊のモチベーションというのは優しさ悲しさにあると思う。

 

自分に降りかかった不幸を繰り返させたくない、自分の大切な人に幸せに生きていて欲しい、そんな気持ちが繰り返し描かれている。

同時に鬼滅の「悲しいな……」と思うところは鬼に顕著だが、「そう生きたくても生きられなかった」という話が頻出するところだ。

十二鬼月の猗窩座は人間時代に自分の守りたいものは何も守れなかったり、柱の時透無一郎の兄である時透有一郎は「弟を守りたい、幸せで生きていて欲しい」と思っても優しくは出来なかった。

 

時透有一郎の回想は個人的にあまりにも「悲しいな……」と実感と共に読んでしまうエピソードで、読み返すと辛くなる。

 

「優しくしてやれなくてごめんな。いつも俺には余裕がなかった。人に優しくできるのもやっぱり選ばれた人だけなんだよな」

 

このセリフが国民的に人気の漫画から飛び出してくることが「か、悲しすぎる……」と思ってしまうぐらいに悲しい。自分自身の実生活でも実感するし、世の中の悲しい話でとてもよく見る一つの現実だからだ。

自分は労働中メンタルが限界になっている時とかに「ああ、もっと人に笑顔で話しかけとくべきだったのに……」とか「パニクってた時態度悪く見えなかったかな……」とか落ち込むことが非常に多いのだけど、「自分に余裕がないと人に優しい人になれないのか……」みたいなことをよく思う。なりたい自分には簡単にはなれない。

不死川実弥なんかも作中で、極限の状況まで玄弥に優しくできない。(それは環境故もあるけれど)

 

炭治郎のような優しさを持つ人が鬼滅世界(現実もそうだが)に少ないのは誰もが心が歪んでいるから、というわけではなくて過酷な生きている世界野中で、そういった在り方を貫けることが非常に困難だからだ。

炭治郎が家族を失ったことが物語のスタートだったように、柱や善逸伊之助といった仲間も多くが喪失と直面したり、最初から喪失を抱えている。

 

「日本一慈しい鬼退治」と宣伝された鬼滅だけど、どこまでもその背景には悲しさがあるというふたつの側面がある。

守りたかったのに守れなかったという悲しみ。

優しくなりたくても優しくなれなかったという悲しみ。

猗窩座と煉獄であったり、継国兄弟であったり、鬼滅では「そう生きたかったが生きられなかった」という悲しさが出ている。

炭治郎という「優しい主人公」がいる背景に多くの「優しくなれず、心折れた人々や鬼」がいる。

そして同時に鬼滅はその両面を描くことから逃げず、同時にそれでもなお人の善性を信じている、というところが魅力であり「性格が良いなあ」と感じたところだ。

 

無惨の「しつこい」にはじまる怒涛の「お前どのツラさげて……」なセリフラッシュや、最後の悪あがきの下りもその両面を描こうとした一端ではないかと思う。

どんな物事にも表と裏の側面があり鬼殺隊の「自分たちがした苦しい思いや悲しい思いを他の人にして欲しくなかった人たちだから」という祈りの積み重ねが別の側面では「異常者の集まり」であることもまた事実ではあると思う。

想いが不滅であるのならば、作中で悪そのものである鬼舞辻無惨の想いもまた受け継がれる可能性がある。

それでもなお自分たちの信じるものを突き通す、それでもなお「そうとしか生きられなかった」人たちが想いを紡いで、負の側面を突きつけてくる無惨という困難を超えていく、というところに鬼滅の刃という作品の善性があると思う。

 

鬼、無惨との戦いの中で大切な物を失い続けることばかりが繰り返される世界で、それでも唯一不滅の物はやはり「同じ悲しみを繰り返したくない。誰かにそんな想いをさせたくない」という人々の優しさと悲しさによって生まれた想いが受け継がれていく、そしてそれが強い絶望を超えていく。

人の想いこそが永遠であり不滅、ということころに集約されるのだと思う。

 

 

 

最終巻の加筆修正(というか連載時にオミットしていたものを復活させた)と描き下ろし部分は一つの作品としてのまとまりをよりしっかりしたものにしてとても良かった。

リアタイ時に感じた唐突感が消えていて、最終話が鬼滅の刃という物語のエピローグということがとてもよく描かれていると思う。

炭彦の「人の人生は物語だから」というモノローグの言葉とかつての鬼殺隊の話がそうした伝え聞く物語になっている、というのがかつての炭治郎たちの物語が「受け継がれるもの」となっているというのがとても優しい。その時に必死に生きた想いというものは忘れ去られるものではなくて形を変えて今でも生き続けているという。

炭彦のおばあちゃんの話も、善逸伝も、各々の生きた人生が物語となって受け継がれているのだと思う。

鬼への「今度生まれてくる時は鬼にならずにいられたらいいな」というのもまた優しい。

 

とまぁ、そんなところが鬼滅に感じる「性格の良さがある」ところ。

 

鬼滅の滅私奉公的なそういう生き方の描き方、みたいなところに自分みたいな捻くれた人間は「いや俺はそうは生きられないよ……」と勝手に圧を感じて辛くなってしまうところもあったのだけど、終始「そう生きられなかった」存在である鬼や、回想とかでそういった生き方をじゃんじゃか描いてくれたうえでそれでもその先の良心のようなものを描いた一貫性がとても好きになったなぁという気持ち。

 

 

 

他に最終巻の話だと無惨もねえ、悲しい。あと描き方に鬼滅という作品の優しさを感じたりした。

 

鬼舞辻無惨、そりゃあもう悪行ばかりなわけで、ラスボスに相応しい非道っぷりなんだけど最後の悪あがきがとても悲しいんですよね。

「お前どのツラ下げて……」ってなる「私の想いもまた不滅なのだ」という自らの悲願を炭治郎に継承させようとする流れと、その結末。

 

無惨は「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」という言葉の尊さ、のようなものを実感したからこそそういう行動に走ったわけだけど、無惨はそんなことをしてしまう人の心のなさ、人間性のなさ故に炭治郎を説得出来ず、鬼殺隊の人々の心も理解できず、一人地獄に置いてけぼりになってしまうわけですよ。今際の際に自覚した誰かに託したいと思った夢も途切れて、消えてしまう。

これが人々の受け継がれてきた想いを踏み躙り続けていた、限りなく永遠に近い時を生きることのできる鬼舞辻無惨への罰なのだろうな、と。

作中での絶対的な悪であり、鬼として描かれてきた無惨だからこそ永遠であるはずの人の想いの和に入れないんですよね。でも、最後の最後まで「なぜ自分はそうできないのか」に気づけない。どこまでも人の心がわからないから。

そんな鬼舞辻無惨、どうしても哀れに見えてしまう。どこまでも人の心がわからなかったから人々を踏み躙り、恨まれ、復讐され、夢は受け継がれない。何が根本的に悪いのかも最後の最後まで理解できない。

これはこれでスカッとする人もいるかもしれないけど、そんな「どこまでも理解できない」故になってしまった巨悪が「大切なことは最後まで理解できないまま」終わりというのはとても哀れで悲しくなる。

そして、そんな作中でひどい振る舞いばかりで打ち倒されても作中人物も多くの読者も、悲しまないはずの無惨に「悲しいな」と思わせる終わりを与える、というところに作品としての優しさがあるなぁ、なんて思う。

そういう目線だからこそ、多くの登場人物の悲しみに寄り添える作品になったのだなと。

 

中々ないお祭りのような作品と一つ区切り、(正確には本誌の最終回のあとだから二区切りか?)ということもあってだらだらと書いてしまった。

映画まだ見てないんですが、そろそろ空いてきたなら見に行こうかなぁ。