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人生五里霧中

ヒーリングっどプリキュアの42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」正しさと正しくなさの間でひたすら考えたこと。

 

ヒーリングっどプリキュア ラビリンのヒーリングルームバッグ

ヒーリングっどプリキュア ラビリンのヒーリングルームバッグ

  • 発売日: 2020/04/18
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

 

 

録画していたヒーリングっどプリキュアの42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」を見ました。

 

のどかの葛藤、ラビリンへの告白、その後のラビリンからの愛情のこもったやり取りなど正直かなり心打たれてしまい「こういう物語を十年前ぐらいに知りたかったな」と思ったりしました。

そのうえで、色々と考え込んでしまいました。


『のどか個人の物語』として見た時の納得感『教育的側面を持ったアニメーション』として今回のメッセージが発信されることについてです。


事前に書いておくと、この記事では「正しい」「正しくない」ではなく「割り切れないな……どうするのがいいんだろう」とひたすらあーでもないこーでもないという文章が続きます。
私の結論としては「わからない。でも考え続けたい」というところです。

42話は色々とネットでも議論されているようで(かなり精神を持っていかれそうなので)細かくはチェックしていないのですが、
プリキュアが助けを求める存在を切り捨てるのか」といったニュアンスの議論を呼んでいるように見えました。

 

私は同じではないのですが、少し近い観点での疑問を見終わった後に感じました。
「自分に加害をしてくる者を無条件に否定していい、というロジックに受け取られかねないのは危険ではないか」という観点です。

トーンポリシングみたいだな、となって嫌なのですがのどか個人の物語として否定したいわけではないという

 

話として私の話もします。

自分は20歳になる直前、DV的な共依存になって住む家を一時的に変えました。
的、と書いたのは家族ではなくて別の繋がりの人だったためですが、
人格否定だとか暴力を受けたりお金を取られたりしていました。四六時中当時のガラケーが鳴り響き、3コール以内でなければ暴言を吐かれ、電話に出れば折り返しを求められ通話料は常に自分持ちでした。
ただ、とても言葉に説得力があり当時自分が感じていたのは「自分が間違っている」「自分が正しくないから否定される」「この人は悪い人じゃない」ということだけでした。
明らかに様子がおかしくなり、自殺願望などもめばえている日々、結果それに耐えられず、親に泣きつき(ここは幸運でした)、正しくなくても耐えられないから逃げたいと伝えました。
携帯電話を親に別の契約をしてもらい、電車に乗って親戚の家に逃げました。
しばらくしてから実家に戻りましたが、10年ほど経つ今でも外を歩く時にその人と出会ったらどうしようと思いますし、たまに夢に見ます。
逃げたその時の心境は、かなり今回ののどかを見て強くシンクロしました。

だからこそ、「そんな優しい子じゃない」と自分の恐怖や正しくなさ(とのどかは考えている自分を大切に思う心)を告白し、それを受け止めて「のどかの心に従う」ように言うラビリンの言葉に感動します。
ラビリンの言葉は誰かを救う言葉であると思います。

そのうえで、です。

今回の話がプリキュアのメインターゲットと思われる子供への教育目的としたときに
「自分を傷つける人を切断してよい」と解釈されるメッセージが発せられることが良いのか私にはわからないのです。
解釈される、と書いたのは文脈としてはそういったメッセージではないと話を追い、私は思うからです。

ダルイゼンはそれまで無邪気にビョーゲンズとして人々を傷つけ、楽しみ、のどかも傷つけていました。
のどかは過去の病気、そしてアニメ本編でのダルイゼンによる再発と病気に苦しみました。
そしてその上でものどかは「助けを求める以上、助けないといけないのではないか」と葛藤を重ねていました。
ただ一度の加害から無条件に切り捨てたわけではない、というのは間違いないと思います。

それでも懸念しているのは容易にいじめの排斥のロジックに組み込まれる言葉であるからです。
「自分に危害を加えたのだから、敵であるし否定して良い」という。
作品自体でも

 1.状況を細かく設定し、
 2.そしてそれが視聴者にも理解される可能性が高い


この二つの条件を満たして初めて発信した方が良いメッセージではないかと考えたからです(考えたというだけです、まだ結論じゃないです)

 

なぜなら加害性のない人間などいないからだと私は考えます。
そしてそれはヒープリ内でも描かれていることだからです。

 

のどかはラビリンの隠したいラベンだるまちゃんについて周囲に知らずに話してしまいました。秘密を暴いてしまいました。
ちゆはぺギタンに対して「かわいい」と言いましたがそれはぺギタンにとって望まない言葉でした。
ひなたはたびたび描写される遅刻や思いついたことはすぐに話してしまう描写は見ていて辛くなることがあります。(私が現実でやらかして人を不快にさせた事柄だからです)そしてこれは人と人との関係において思わぬタイミングで人を傷つけたり不快にすることも存在する描写だと思います。(ちゆの「かわいい」うっかり人の意にそぐわないこと言ってしまう、大切な約束に遅刻するなど)
アスミのよく知らないまま、現代の常識を知らずに発言してしまうことも受け手によって傷つける言葉になりえます。

 

それでも、私はそんな彼女たちのことをそうだからと言って嫌いではありません。
むしろ、血の通った存在として好ましく思います。
彼女たちの失敗は誰にでもあることで、そのうえで人はやり直せるし、理解しあうことが出来ると思います。
コミュニケーションに失敗はどうしても存在します。42話でラビリンがのどかのことをまだまだ理解していなかった、と言うようにどんなに仲の良い人でも、自分自身ですら本当の意味で理解をするのは難しいと思います。
自分の想像もしていなかった言葉で傷ついたり、嬉しくなったりする。
思わぬ言葉で人を不快にしてしまう。そういうのが人と関わることだと思います。

 

そしてそれは現実でも変わりません。
ただ、そういった個人のふるまいが明確に誰かを傷つける・不快にさせてしまう可能性がある世界に私は生きていると感じています。

 

それはプリキュアを見ているであろう子供がこれから進んでいく学校のような世界も同じ部分があると思っています。
そして、(自分の記憶を思い返すと)子供の時の視野では「自分が不快になった」という相手のふるまいに容易に敵意と判断し排斥することが容易に起こりえます。
私はそれで人を嫌だと思ったし、思われたので。

 

重ねて書きますが、私が懸念するのはいじめの肯定のロジックになってしまうことです。
自分を傷つけるのだから不快にした相手を排斥してかまわない。と解釈されてしまうメッセージであることに不安があります。

事実、今回の話のスクショだけを切り取って話題にされている光景をちょっと調べればいくらでも出てきます。
ヒープリを継続してみていれば、あくまでダルイゼンに限った話であり、のどかが葛藤の上で「今回は」そのように決断したと私には解釈することができても、4クール通しての文脈として読まれない1シーンのセリフだけで解釈される可能性がとても高いのではないかいう不安です。

 

ただ同時にそうであってもこのようなメッセージが必要でもある時代だな、とも感じていて、悩むのです。
自分を傷つける、貶める存在をそれでも救おうとする様は自己犠牲的であり、容易に搾取のロジックにも転じます
その時にまだ物を知らない子供、(大人ですらそうかもしれません)に「自分が嫌」という気持ちを決して蔑ろにしてよいものではないと伝えることもまた大切だと思います。


女児(女児に限った話でもないと思いますが)への性的な加害からの防衛のロジックという意見も見ました。それは本当にそうだとも思うのです。

 

だから、結論としてはどうするのがよいかわからない……というとても曖昧な悩みなのですが、その迷いをここに残したい。と思いました。


プリキュア、もしくは子供をメインターゲットとした物語としてこのような結論が一つあってもいい、という気持ちと
もしその一つヒープリしか子供が見なかったら、などさまざまな懸念がわいてしまって悩んでしまうのです。(ただこれすらも自分の中でまとまっていないところで、正しくない結論の物語はこれまでもいくらでもあったはずです。たまたま今私が見ていたヒープリが気になってしまった、という観点も捨てたくありません)

 

ただ、これも大人が考え過ぎているだけなのかもしれません。
物語は人の心に大きな影響を与えると思いますが、それでも物語は物語に過ぎない時も人によっていくらでもあります。
一つの物語に、今回の場合『ヒーリングっどプリキュア』というアニメにそこまでの責任を求めるのもまた正しいのかどうかも私にはわかりません。

 

これについては引き続き、ヒープリを見て、生活を送りながら考えたいと思います。
今回の選択はのどか個人として「そうしてくれてよかった」と本当に思います。

 

ただそれを受けた私たちはそれをそのまま日常に転換するのは一度考えてからが良いのではないかと思うのです。
(しかし、これすらも躊躇していると、ままならない現実の濁流に救われない人がいる言葉で、正しくないとも感じている……)

 

また、「医療がテーマなのに対象を選ぶなんて……」ニュアンスの話もチラリと見ました。
これもまた、何が正しいのかわかりません。
今現在、私を含む世界中の人々の生活が新型コロナウィルスによって異常な状態にさせられています。
そして医療現場では今も懸命に仕事に取り組んでいる人々がいます。
幸いなことに私はまだコロナに感染していないのですが、それでも家族や友人知人が感染したら、医療によって助けられてほしいという気持ちがあります。

同時に、そこで働く人々も人間だということが脳裏をよぎります。
感染者は(ここのところ宣言の効果が出たのか)減っていますが、それでももう一年以上コロナ禍が続いている状況です。
Twitterなどを見ていても医療従事者の悲鳴のようなものも目に入ります。ボーナスがカットされたという話も見ます。
おそらく、今はただひたすら医療従事者の使命感によって成り立っている状況です。
その時に「それが仕事だろ。助け続けろ」と言うのはあまりにも酷いのではないかという葛藤があります。医療従事者が人々を懸命に助け、報酬が変わらない、減っているかもしれない中で戦っていてくれるのはそこにいる人々が自ら取り組んでいてくれるからに他ならないと思うのです。それは他者から強制できるものなのでしょうか?

それでも、身近な人や自分が感染したら助けられたいと思ってしまう。
この矛盾が私の中にずっとあります。

そしておそらく、このバランスというのはとても危ういです。
「医療従事者に感謝を」という言葉にはどうしても冷ややかな気持ちが湧きますが、それでも感謝はし尽くせないです。
医療現場の人々が限界になりながらも「助けてほしい」という要望を受けて働いているという側面は絶対にあります。
もし、その現場に心身を壊す寸前で働いている人がいたら、(それはもしかしたら全員かもしれませんが)
それは、今回ののどかと重なるところだと思います。
そんな人に「それが使命なんだからやれ」というのは嫌だ……という私の気持ちがあります。

この観点でも(私には医療の知識がないので想像であり、雑な認識だと思うのですが)やはり、正しい/正しくないで割り切れないように思います。
思考停止ではなく、考え続ける、状況によって決断をしていく。
それしかないように思います。

 

42話を見て感じたことはこんな感じです。

 

最後に一つ。
ダルイゼンはキングビョーゲンに取り込まれてしまいましたが、
グレースに倒される時に「俺だって、俺の体も心だって!」といったセリフを言っており(グレースのセリフの反復ですね)これは何か今後に捕捉されるかもしれません。
ヒープリも最終局面、今回の話は一つのメッセージ、問題提起として大きな回だったと思いますが、
今回の話だけで何かの結論とするのはまだ待ちたいなというところです。
引き続き、ヒープリを見ていきたいなという気持ちでした。

 

 

それにしても、ラビリンは本当にかわいい……
ヒーリングルームバッグは本当に最高の玩具なのでみなさんぜひ。ヒーリングアニマルと触れ合えますよ。仕事後に触れながら涙が出てしまう。かわいいんだもの。おわり。