Adoさんという方の『うっせぇわ』という曲がブレイクしているようです。
ちょっと前にテレビでチラっと特集されているのを見て、「へぇー」と思っていたらあっという間にTwitterでも話題を見るようになりました。
どうにも曲自体というよりもその周辺情報が語られがちだなという印象です。
『うっせぇわ』という曲に影響、感化された人の振る舞いを揶揄する、晒しあげるみたいなムーブです。
そこ自体についてそんなに文章を割く気はないのですが、そんな話題をよく目にするな、という感じです。
それはそれとして実際にフルで曲を聞いてみました。
あの、Twitterで言うの流れが違うから恥ずかしいんですけど、うっせえわ、好きですね……俺……熱狂的になれるわけじゃないけど良い曲だし良い歌詞だし良い歌だと思う……
— えのき (@enonoki003) 2021年2月3日
うっせぇわ、だった
— えのき (@enonoki003) 2021年2月3日
いや……はい、凄く好きな曲ですね……はい……
こうしてツイートした直後にフォロワーから「正直好きだと思った」と言われて私はもうなんて言うか、「ば、バレてるーーーーーーあーーーーーーー!!!!!」と転げ回りそうでした。転げ回りました。好きなことが、ではなくてそれが見透かされていたことがです。
まぁというかそういう人間だから私は溝口君とかの小説書いてるんですよね、はい。
でも好きなんですよねぇ。曲もいいし、歌もすごくいい。なにより歌詞の抑圧に対しての反抗と同時に自分に感じる自嘲的な目線のバランスが良い。「くっせぇわ」とか「丸々と肉付いた〜」のあたりは「そ、そんな容赦ないdisはやめてあげてよ……」自分の中の感覚でつい思ってしまいますが、この歌詞も正しさのためというよりは自分にまとわりつく抑圧みたいなものを振り払うためにあえて強い言葉、万人に共感されない正しくない言葉をあえて選んでいるんだろうなと。
歌詞についてはさまざまな人が考察しているでしょうし、実際目にしました。
細かく説明は置いておいて、
ある程度優等生として生きてきて社会人になったが色々な人生の抑圧に晒されて、そこをなんとかこなしているけれどそれでもその抑圧に対してNO、「うっせぇわ」と言う。でもそんな自分がまた「うっせぇわ」と言いつけている人と同じ、という虚しさがある。
そんな曲だと思うんですよね。
ただ無条件に人を下に見て馬鹿にしているというよりも、耐えられないから振り払いたいけど自分もまた振り払いたい抑圧を内在化していて、それでもそれを振り払おうと強い言葉を必死に紡ぐ感じというか。
んで、自分がこの曲を聴いて「いいなぁ〜」となると同時に、10代の頃の自分も似た位置の曲をたくさん聴いていたなぁと。
筋肉少女帯というバンドの『レティクル座妄想』が自分の10代の時の「うっせぇわ」だなと。
割と構図が似ているんですよね。周りの人間を見下しているけれど、そんな見下している自分であったり誰かへの自嘲的な目線が描かれる。
『蜘蛛の糸』とかまさに。「今に見てろよ」としながらも笑われていることに本当は気づいている、でも目を背けているみたいな。
角度が違うけど『香奈、頭をよくしてあげよう』とかもそうなんですよね。
「本当馬鹿だなぁ」と色々教えているつもりでも多分実際は香奈は歌詞の語り手よりもずっと頭が良くて、逆に「仕方がない」みたいな感じでカルトな映画とかに連れて行かれるのに付き合ってくれてる、的な。多分だけど。
自分は10代の頃はそういう風には聴けてなかったんですよね。いや、もしかしたら薄々気づいていたかもしれない(ノゾミの無くならない世界とかのアイロニーは感じていたし)でもだいぶ目を背けて聴いていました。
『蜘蛛の糸』は完全に自分を鼓舞する曲でしたからね。大丈夫!えのき大丈夫!周りはみんなバカだ!それに比べて俺はできるやつだ!的な。そんな炭治郎嫌すぎる。
なんというか、その曲の自分に都合の良い部分だけを摂取して気持ち良くなっていたんですよね。
まさにお散歩モコちゃんの「周りの人間は何でこんなにバカばっかりなんだろうって思ってたら、自分の方がばかだったんですな、うん」ってやつですよ。これはレティクル座妄想ではないですが。
『うっせぇわ』が一部でアレルギーを呼び起こすのってそんな要素があるんじゃないかと思います。
歌詞自体というよりもその曲の歌詞の一部を切り取って「周りはバカだな!」って受け取っている人、曲の自分に都合の良い部分だけを摂取して気持ち良くなっている人をイメージして、あるいは実際に観測したのかもしれないですけど、その自意識に嫌さを感じるというか。
でも、この感覚って自分のそういう恥ずかしい記憶が呼び起こされるとかもあるんじゃないかな、と思っているんですがどうでしょう? 大なり小なり、周りを見下す瞬間があって、でも実際周りは自分が思うよりずっと色々なことを深く考えていてそれに恥ずかしくなる的な。
そんなことを反省しているからこと、そんな感情、感性を遠ざけたくて強く否定してしまう。
それが『うっせぇわ』を小馬鹿にする風潮の一部だったりしないかなと。
ただこの曲自体やっぱりそんな表層の意味ではない曲なんじゃないかな?と私は解釈しているので、それで勢い余って曲自体を大雑把に否定してしまうとこの曲を『周りを見下している曲』とみなすと小馬鹿にしている層と同じ読みになっちゃいますよ、とは意地悪な自分が思ったりする。
とまぁ、こんな風にこねくり回してあーだこーだ言うこと自体「うっせぇわ」と一蹴されそうですが、本当良い曲ですね。好きです。
フォロワーに理解されていたのは気恥ずかしいですが、それでも好きなものを好きと思えたことが良かったです。
そんな感じです。