えのログ

人生五里霧中

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』雑感

※当然のことながらネタバレ感想です。

 

前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から8年と少し3月8日にエヴァの完結作である『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開されました。

初日には残念ながらどうやっても調整がつかず見に行けなかったのですが、9、10日と連日で見ることができました。

 

新劇場版の締めくくり、そして「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というキャッチコピー、自分の中でも色々な感情があり、「自分にとってエヴァとは何なんだろうか」ということを考えながら公開までを過ごし、見に行きました。

 

一言で言うと「最高だ……これ……」ということに尽きます。

ただこうしてブログを書くのは自分の中にある「最高」「ヤバい」「泣いた」と言った言葉を自分なりに言語化する試みなので書いていきたいと思います。

 

事前に書いておくと私はエヴァについて『庵野監督の私小説的な側面』として読んでいる向きが強く、それゆえに 旧シリーズや、Q→シン・ゴジラ→シンエヴァみたいな変遷でみた時の庵野監督の発想としているテーマ面に感情が乗りがちです。

最近気づいたんですけど『推し、燃ゆ』の推し概念、私にとっての『エヴァ』だったのだなぁと思いました。

 

エヴァについて考えることは祈りなのかもしれない。

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 

 

・ユイの胸で泣きたかった

ふせったーでも呟きをしたのですが、

ゲンドウが「ユイの胸で泣きたかった」というところが庵野監督の私小説的な側面としてエヴァを見ている自分にとって、初見時に強く感動したところでした。

 

大泉 庵野さんは毎回パンツを脱がないと気がすまないでしょう。

庵野 自分のリアリティなんて自分しかないんですよね。うけなきゃもう裸で踊るしかない。ストリップしかないと思います。

庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン

 

 

 

創作について「オナニーショーである」といったことを庵野監督が言ったことは有名な話ですが、庵野監督は同時にそのショーをめちゃくちゃ「面白く」「かっこよく」作ってしまう人なんですよね。脱いではいる、脱いではいるけど「それっぽく」してしまうというか。

庵野監督はそもそも観客のほとんどよりもよほどオタクな人で、そんな人が自分を喜ばせるためのショウをしている、というのもエヴァである(少なくともTV版スタート時点は)はずですし、だからこそTV〜EOEは凄まじい身の削り方となっていたのだと思います。

 

ただ、私自身色々と人生過ごしているとTV版〜EOEなどに引いた目で見た瞬間もあったりしました。「自分と違ってちゃんと落ち込む理由がある」的な瞬間です。

人生色々あるもので、悩むこととか、挫折とかは私も色々あったんですがとにかく「ダサい」んですよね人生の失敗って。本当に笑えないし、浸れないし、みっともないし……そんな失敗の方がむしろ多いんですよね。

落ち込んでいる時にTV版〜EOEに救われた瞬間もいくらでもあるんですが、「シンジもアスカもミサトさんもちゃんと出来事があって、メンタル壊れているな」みたいな気持ちになることがあったんですよね。なんていうか「これだけ過酷な環境/辛い出来事があったのならこうなるな」という納得。現実の自分は全然そうでもないことでメンタル終わっているみたいな状態。

 

んで、そういうひねくれた目線で見た時に庵野監督のストリップショーって「気取っているかもしれんこれは……いや好きだけど……」と思ったんですよね。

TV版〜EOEは確かに庵野監督の内面を晒しているし、思いっきり全裸なんですけど、その脱ぎ方にカタルシスを作っているんですよね。負のカタルシスというか。

 

自分は新劇場版ではQが本当に好きで、Qもまぁ結構気取っているところもあるとは思うんですけど、シンジの追い詰められた時の狼狽えっぷり、視野狭窄っぷり、シンジのやり直そうとして失敗とか、諸々が何とも言えない「ああ、この失敗は俺も普通にやるだろうな」という感覚があって凄くシンクロできたんですよね。

(あとはカヲル君の言葉のように、ヴィレの面々の振る舞いも少し視点を変えるとシンエヴァにつながるように、希望が見えるというか。だいぶここら辺はずっと考えて公開から見直していたのでシンエヴァはかなり解釈一致で嬉しかったです。)

 

それで今回のゲンドウですよ。

 

庵野 女の胸で泣くっていうのは、いいと思いますよ。本当に泣きたいです。例え借り物であっても、それでその先、生きていけますからね。

庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン

 

 

庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン

庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン

 

 

上記の引用でもあるようにかなり直球で庵野監督の欲望なんですよね。でも、それをこれまで内面の描写が避けられていたゲンドウに言わせる。ゲンドウの弱さとして吐露させる。

庵野監督、TV時代から実際のところシンジでもあるけど、ゲンドウでもあるんですよね。監督として色々指令して、自分のためにプロジェクトを動かしてっていう。

 

だけど旧シリーズの時はどんどんゲンドウが『父と子』という対立構造自体どっかに消えてしまって、シンジ(やミサトさんやアスカ)の承認欲求の話だったり、コミュニケーションの話としてまとまってしまう。結構『父殺し』的なことは元からやりたかった様子がインタビューで読めるんですけど、それができなかったんですよね。

多分、庵野監督はエヴァのキャラクターを書くときに自分の合成人格として出しているそうなので、『ゲンドウ』という存在を自分の一部として受け止められなかったところがあるんだろうなぁと。

 

でも実際のところ庵野監督に年齢として近いのはシンジよりもゲンドウなんですよね。(エヴァを見ている自分も含めて。シンジたち14歳はどんどん距離が出来ている)

新劇場版で『父と子』という構造を維持し続け、『シンエヴァ』で『父殺し』ゲンドウに「ユイの胸で泣きたい」という情けない言葉を言わせたこと、これは昔では出来なかったことなんだと思います。

 

いや本当にこのシーンが好きで、なんていうか本当に情けないんですよね。ゲンドウ。でもその情けなさって私自身も抱えているダサさというか、

「あー、本当に色々間違っている部分もあるだろうし、それをいうのはダサすぎるよ、って思うとか色々あるけれど、その気持ちは本当に俺も持っているよ。わかるよ」と言いたくなる言葉だなぁと。変に今風の言葉に変えず、等身大の情けなさをエヴァで出してくれた、ということが本当に感動しました。

 

・愚直、不器用な映画

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はそんなゲンドウの言葉に代表されるようにこれまでの『エヴァ』が持っていた神聖さを剥ぎ取っていく映画なんだと思うんです。

 

『アナザーインパクト』『アディショナルインパクト』とかの単語のチョイスに始まり、もう何というかかっこよさを感じない露骨にダサさを感じる言い回しをするし(後述)、綾波(別レイの方)はそれまで使徒との戦いとその日常の範囲の中で描かれてきた情緒の成長をRTAのごとく農作業等で得ていくし、アスカはなんというかファンサービスの予定調和的じゃない人間関係の着地(いや成長したアスカとのあの赤い海での会話は最高にファンサービスしてましたが)を見せますし、あんなに超然とした雰囲気だったカヲル君も「自分が寂しかった」という弱みをストレートに出します。

 

「こうであったらいいな」というオタクの欲望(俺を含む)を容赦無く否定しているんですよね(ただ同時に肯定している。後述)。オタクの欲望のど真ん中を貫いて人気を爆発させたエヴァが!!!!!!!!!

 

多分、庵野監督『破』のようなエンタメ全振りのカタルシスというか盛り上げ方はやろうと思えばいくらでも出来る人なんだと思うんですけど(ヴンダーピンチのときにシンジ覚醒無双みたいな)、それでも『シンエヴァ』でやりたかったのはそこではなかったのだろうなと。

そんな愚直なダサさを出すということ、それをただ人が生きている営みとして描くということ、それは多分新劇場版が公開され始めて長い時間が経過して『シン・ゴジラ』を経由した『今』だからこそ書けたことなんだと思います。

 

・欲望の否定と肯定

『シンエヴァ』では『こうなったらいいな』的なキャラの予定調和的ではないものがバンバン出たなぁという印象ではあるんですが、ただそういう欲望を「そんなものはない」と否定しているわけでもないんですよね。

エヴァンゲリオンイマジナリー、あれは多分旧シリーズというか色々な人が思い描く『エヴァ』の象徴なんですよね。直球すぎ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!でも上手い!膝を打ちました。

 

エヴァ』を生み出した庵野監督が作ろうとも多分、もう万人が「これこそがエヴァ!」と口を揃えて生み出されるエヴァは存在しないんですよね。色々な人が旧シリーズや新劇場版を触れて「なるほどこれがエヴァか」と感じた人の心にこそエヴァがある。

シンジが「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」といって『シンエヴァ』を終わらせるわけですけどヒカリの言うように「さようならはまた会うためのおまじない」また会う日を否定していないんですよね。ただ、今回で新劇場版、これまでの『エヴァ』に一区切りをつけたというだけで。

人の心の中にあるありとあらゆるエヴァンゲリオンを『エヴァ』として肯定するということ。それはもう貞エヴァとか同人誌とかも含めて丸っと肯定しているという(いや制作についてとかはガイドラインにのっとりますけど)

 

筋肉少女帯との変な合流

それで私が『シンエヴァ』見終わったときに連想した筋肉少女帯の曲があるんですよ。なんで筋肉少女帯の話を出すかというと私が筋肉少女帯が好きなのと、筋肉少女帯を聞いた理由は綾波のキャラデザモチーフに筋肉少女帯の『何処でもいける切手』という曲だと知ったからという、エヴァ経由だったからです。

 

『中2病の歌詞ドロシー』という曲があります。これは筋少の25年、四半世紀を振り返った曲であるとともにありとあらゆるファンの見てきた『筋肉少女帯』という幻想を肯定する曲なんですよ。

 

そのバンド 本当はいなかった

25年見てたのは自分の心さ

中2病の神ドロシー

 

うおおおエヴァンゲリオンイマジナリー。

んでもって25年、パンフレットでもキャストの方々が25年と言っていて凄く一致しているんですよ。ちょっとぜひ聞いてみてください。

 

筋肉少女帯オーケンも色々とメンタルがぶっ壊れて何というか『キラキラと輝くもの』あたりのアルバムは本当に遺言のような雰囲気で怖いんですよ。TVとかEOEのエヴァとはまた違うんですが、それはそれとして才能を燃やし尽くして死にそうな気配がある。

でもオーケンも何とか生き延びるんですよね。それで今でもバンドをやっているという。

最近、つっても結構前ですが筋肉少女帯再結成あとの曲で『サイコキラーズ・ラブ』という曲が私は好きなんです。


筋肉少女帯 - サイコキラーズ・ラブ[LIVE] (Kinnikusyoujotai - Psycho Killers Love [LIVE])

 

なんというか一旦活動休止するまでの筋少の恋愛ってむしろ狂気に落ちる要因だった印象が自分の中であったんですけど(自分が蜘蛛の糸が好きだったりやたらアンクレットが印象に残っている)サイコキラーズ・ラブだとむしろ愛情が正気に保つための要素なんですよね。

自分はオーケンは「君たちはフェティシストであり続けてほしい!」と『いくじなし』で叫んだのに、「フェティシストであり続けられなかった人」だなとアルバムを経ていくごとに感じてまして、(大衆に飲まれないぜ!ってやってたら大衆側になっていたというか。サブカルではあると思うですけどね)なんというかそんな変遷が感じられてサイコキラーズ・ラブ、好きなんですよね。そんな当たり前の着地がとてもいい。

 

それで、なんというかそういう変化って『シンエヴァ』でも強く感じたことなんですよね。

 

『シンエヴァ』での第三村での生活描写とか、そこを経てシンジが向き合い、乗り越えたことって蓋を開けてみるととても個人的な、当たり前の葛藤とかであれだけ色々な人を巻き込んだ一大シリーズの締めくくりとしては本当にささやかな結論なんですよね。

ネットの感想で「庵野も保守的な幸せになったんもんだな」的なニュアンスの言葉をみて、筋肉少女帯もですけど、なんというかこういうメンタルが壊れたあとになんとか色々な人の助け借りて立ち直った人ってやっぱ丸くなるんですよね。

どうしてもすごく当たり前のことを実感を持って話すようになるというか。

 

というか自分もメンタルちょっとダメにして復職したりして似たようなことは考えたんで、結構「あるある」な思考の流れなんだろうな、というか。

だから「保守的な幸せになったんもんだな」的な感想も「まぁそうね」とはなったんですが、EOEのセリフを思い出しちゃうんですよ。

 

自分が嫌いなのね。だからヒトも傷付ける。自分が傷つくより、ヒトを傷つけた方が、心が居たいことを知っているから。

でも、どんな思いがもっていてもそれはあなたが自分一人で決めるたことだわ。価値のある事なのよ。シンジ君。

あなた自身の事なのよ。ごまかされずに、自分に出切ることを考え、償いは自分でやりなさい 

とか

 

生まれてきてどうだったのかはこれからも考え続ける。だけどそれも当たり前のことに何度も気付くだけなんだ。自分が自分でいるために

 

とか。

どこまでも当たり前の話なんだけど、長い回り道を経由してようやくそこへ『エヴァ』が辿り着いた、というのが嬉しいんだと思う。

 

・EOEとシンエヴァ

 

『シンエヴァ』自分はEOEとメッセージはそんなに変わっていないと思っていて、語り口が変わったんだなと。(そして今だからそのような語り口が出来た)

 

あとEOEは自分はそこまで「現実に帰れ」という主張とは思っていなくて、というか、ニュアンスがちょっと違うと思っていて、『シン・ゴジラ』とかでも「虚構VS現実」とはやってるけど、虚構の存在であるゴジラを消し去れずにそこで生きるしか無い的な終わりになっているように、虚構と現実は単純な対立構造としてはEOEでも着地してないと思うんですよね。

 

「でももう一度会いたいと思った」ってところと、アスカの首絞める→アスカに頬を撫でられて泣き崩れる、ってあたりが特に重要な箇所(気持ち悪いと同じだけの価値があると思う)と自分は受け取っているんですよね。ちょっとこれを書くには文字数が異様になるので何となくここら辺のニュアンスで自分のEOEの受け取りは終わらせときます。

なんというかシンジにとっての現実はアニメという虚構だけど、シンジにとっては現実なんですよね。だからシンエヴァの最後の駅のシーンとかはアニメーションと実写がうまく混ざっている描かれ方をしているというか。

「虚構を楽しんで、それで元気つけて現実なんとかやっていこう」というか。こう、現実に帰るにしても虚構を全否定じゃないというか。

 

ただEOEの時はメッセージとしては作ったんだけど、庵野監督のメンタルがめちゃくちゃだったり、その「理想」のようなものを提示は出来たけど、シンジが「でももう一度会いたいと思った」と補完を否定した後はめちゃくちゃになった世界と、アスカを首絞め→気持ち悪い→終劇でかなりシビアにしかイメージが出来なかったんだろうなと。

(TV版はそれ以前にそんなifの現実(学園エヴァパート)を思い描くだけで終わってしまった。)

 

そういう意味で、補完を否定して、さらにその先を希望があるように描けた今回のシンエヴァ庵野監督の現在に集大成であることは間違いないなと。

同時にゲンドウが「人の言葉が人によって正解が違うのはどちらも違う側面なだけ」的な話を語るようにEOEもシンエヴァもどちらも『エヴァ』の違う側面なのだなと。流石に無いと思うんですけど『真・新劇場版エヴァ』があったら多分また違う語り口での『エヴァ』になるんでしょうね。

 

・元気が出るアニメだった

なんとも話がとっちらかってしまったのでこの辺で終わりにするのだけど、『シンエヴァ』をみにいく直前に『監督不行届』の庵野監督のコメントをみていたらめちゃくちゃ刺さってしまった。

 

監督不行届 (FEEL COMICS)

監督不行届 (FEEL COMICS)

 

インタビューで庵野監督、「(安野モヨコ先生の漫画は)現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね」と言っていて『エヴァ』では自分が最後まで出来なかったこと、と言っているんですよね。

これがEOEでやりたくても当時はやりきれなかったこと、『シンエヴァ』との違いなのかなと。(ただEOEでも俺はそれなりに現実頑張ろうという気持ち出ましたよ。なんというか苦しんでいるのは自分だけじゃない(それでもまた会いたいと思うシンジがいる)、みたいな勇気の与えられ方をした。)

『シンエヴァ』みた後に本当に元気が出て、色々なことをちゃんとやっていきたくなるアニメでした。

本当にお疲れ様でした。

さようならエヴァンゲリオン。また会う日まで。

 

(といいつつもまだしばらくちまちま感想書いたりする気がする)

 

 

 

3/11 結局追記しちゃう!さようならしてない!でもやっぱ荒くて語り足りないので書いていきます。

 

書き忘れから

 

・二次創作としての『新劇場版』

 >『アナザーインパクト』『アディショナルインパクト』とかの単語のチョイスに始まり、もう何というかかっこよさを感じない露骨にダサさを感じる言い回しをするし

 

と上で書いたんですけど、エヴァンゲリオンイマジナリーというのが「万人が各々思うエヴァ」という概念とするのなら、新劇場版自体原典のエヴァではないんですよね。

 

>『エヴァ』を生み出した庵野監督が作ろうとも多分、もう万人が「これこそがエヴァ!」と口を揃えて生み出されるエヴァは存在しないんですよね。

 

と上でも書いたように何を作っても誰かにとって「二次創作みたいだ」と思わせるんですよね。破のカタルシスだったり、Qのヴィレとかであったり、(実際そういう感想はけっこう見た)

だから逆に『アナザーインパクト』『アディショナルインパクト』のダサさって「これはそういう二次創作でもあるんですよ」と示すための言葉遣いなのかなと。(あとここでも書いたエヴァの神聖さを剥奪するため試み)

なんというか今回露骨に言葉とかで「ダサさ」が組み込まれていて、それって多分意図的なんですよね。(と俺は感じた)

『シンエヴァンゲリオン』すら二次創作。だからもう好きにやりなよ。

私は好きにした、君らも好きにしろ

ってことだと思うんですよ。

自分自身以外オリジナルのないコピー世代と自己定義した庵野監督のもう一段階止揚した概念というか。

全部を否定、肯定することで、何もかもを等価にしたというか。新劇場版も間違いなくエヴァ、でも新劇場版を「こんなのエヴァじゃねえ」と思う人の理想もエヴァ、としたというか。

あと同じ文脈の演出だと思うんですけど「シンクロ率は0パーセントじゃない……0に最も近い数値、シンクロ率無限大!」は正直面白過ぎた。俺はこういう無茶苦茶なダサいカッコつけが本当に大好き。(これも400%の延長というか、もっとカッコよく表現出来たというか誰でももっとカッコよく出来ると思う表現だと思う)このシーン、家で見て「うおおおさすがシンジさんや!すげえぜ!」とかDMCのファンの鏡みたいなムーブして盛り上がりたい。

 

 

 

・『大人』という言葉、目隠しのメタファー

 

ふせったーに書いたことなんですけど、

新劇での「子ども」「大人」ってかなり意図的に二項対立にできないようにされてる概念だと思うんですよ

 

自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ

他人から与えられるものではない

シンジ、大人になれ

 

とゲンドウのセリフが印象的ですが。

 

加持さんは

 

折り込み済みとはいえ、大人の都合に子供を巻き込むのは気が引けるなぁ

 

マリは

自分の目的に大人を巻き込むのは気後れするな 

 

とか言ってて、意図的に混線させている感じがありますし。

それでシンジは

 

 

ですし。

「大人になれ」と言ったゲンドウは一番オトナコドモですし。

 

なんというかフリクリとかトップ2的なものとして「大人」という概念は新劇では置かれているのかなと。自分の中の子供を認めることで大人に近づくみたいな捻れ。

 

で、大人の象徴、メタファーとして描かれていると思われるものがあります。

グラサン、バイザーなどの目隠しです。

 

Qからミサトさんがグラサンをつけ、ゲンドウがバイザーをつけ、アスカが眼帯になっているわけですよね。

 

ゲンドウの語った『大人論』は

大人=自分の目的のために他を捨てるってのは=機能に徹する、ということだと思っていて、だからしょうもない情緒は切り捨てる。


Qでゲンドウもミサトさんも目的のために自分の感傷を見せないために目を隠してる。
シンエヴァでバイザーが割れてシンジと話すゲンドウは情けない本音を話すし、グラサンを取ったミサトさんは職務に忠実な艦長という以上にシンジやリョウジといった自分にとって大切なもののために戦う色が強く出る。
もちろんこれを持って「大人」とするのもアリだとは思うんですけど、『破』でゲンドウが語った大人論とは全然違うよなと。

 

面白いのがQでシンジに「あれじゃ馬鹿じゃなくてガキね」と言い放ったアスカが隠しているのは片目なんですよね。
シンジに「先に大人になってしまった」と過去の恋を語ったり、自分の職務に忠実なアスカは「大人」ではあるんですけどマリに指摘されるくらいにはシンジに対して様々な感情があり、それにケリをつけたくてシンジに絡む節もあって、目を隠す=幼児性の放棄、と見ると凄い良いバランスだなぁと。

 

現実/虚構もですけど大人/子供もどちらも否定するわけじゃなく、両方を合わせて肯定するのがシンエヴァのスタンスなんじゃないかなと。希望と絶望、リビドーとデストルドー、死と生という風に相反するものを併せ持つのは旧シリーズから一貫してますし。

 

こういう描写の仕方は「フリクリっぽいなぁ」と私の中のイマジナリーフリクリでは思うんですが、どうですかね。鶴巻監督とか、榎戸さんとかの意図を以前よりも強く新劇場版に組み込んだのかなぁと。

 

・マリについてあれこれ

 

マリって鶴巻監督のキャラみたいなこと言われていて、実際そんな感じのコメントがあるんですよね。庵野監督の意図をいれないようにしているというか。だからマリは庵野監督の精神世界としてのエヴァ/ヱヴァ、キャラクターは庵野監督の合成人格という『自己』で成立している枠組みに明確/意図的に流入させた『他者』なのだなぁと。

 

私はあんまマリ=安野モヨコ先生とは思いたくなくて、というかそれも間違いなく含まれるけどそれだけじゃないよなぁと思うんです。あんま恋愛とか結婚ってそんな重みがあると俺が個人的に思いたくないのもある。いや重みはあるんだけど他にも人生に重みのあることは色々あるというか恋愛至上主義が私は好きじゃないので……(恋愛『だけ』が至上というのが嫌なだけでそれ自体を否定したいわけじゃない)

 

庵野監督がカラーを作って、色々な人と共同でアニメ作って、また壊れて、で日本アニメ(ーター)見本市アニメーターとかで「アニメの楽しさ」をもう一度思い出して、シンゴジラ作って……って「大きなカブ」とかインタビューで語られたこととか含めると、安野モヨコ先生「だけ」では成立しないんですよね。鶴巻監督の色が強く反映されたキャラだしマリ。

 

更に話がずれると、

風立ちぬ』の声優を庵野監督がやったの、やっぱ大きいよなと『解釈』してしまうんですよね。(これは恣意的なエゴの解釈であるという自覚のうえで)

 

風立ちぬ宮崎駿監督が脱いだ映画というか、「ただ美しいものを作りたかった」という飛行機を作ることと、それによる功罪をそれでも「生きて」と言われ、肯定する映画だと自分はざっくり解釈してるんですけど、飛行機作りは宮崎駿にとってのアニメ(飛行機の作画でしたっけ?勢いで書いているので少しブレがあると思います)でもあるはずなんですよね、というかそういう読みはめっちゃあったはず。

 

それで庵野監督もまたすごいオタクだし、エヴァはそんな庵野監督がオタクの自分のために作った作品だったはずなんですよね最初は。それが社会現象になったし、現実の糧にして欲しいというか、現実を生きる元気としての虚構にしたいという個人の願いが社会現象なったが故に『現実の逃げ場』にすらなってしまったエヴァンゲリオン

 

Qあたりも露骨ですけど、エヴァによってめちゃくちゃになってしまった世界」は現実/虚構ともに同じなんですよね。シンジがエヴァに乗る/庵野監督がエヴァを作る、そしてその影響という関係。

 

これは『風立ちぬ』で書かれた堀越二郎と同じなんですよね。
自分はただ自分にとって美しいもの(飛行機=戦闘機=戦争の道具)を作りたかっただけなのにそれが世界をめちゃくちゃにする一因になってしまった。それでも「生きて」と言われるラスト。

 

実際にどういう効果があったかはわからないです。
でも、庵野監督ほどのオタクだとそういうメッセージは好意的かどうかかはわからないですけど、絶対キャッチしていると思うんですよね(という恣意的な解釈!)

もちろんそれだけで庵野監督が回復したわけでは無い(大きなカブでもそうだったし)けど、シンのトウジのようなかまってくれて、生きていて良いというメッセージを積極的に伝えてくれた要素の一つじゃないかなと。


そんな他者の存在を作品に入れること。

庵野監督の合成人格、理想の投影ではない集団で作ったもの、集団でのアニメーションとして生み出された『シンエヴァ』ということなんじゃないかなぁと。

 

ところでそれはそれとして

マリエンド「こんな実際の年齢差やべえカプ、というか友人の息子と盛大に着地する25年かけた終わりになる映画俺は見たことねえよ!!!」ってなりましたね。こわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜他者、わかんね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜となるけど、そこが私は好きでしたね。内面の本当のところがわからないマリという旧シリーズにはいなかった『庵野監督ではないキャラクター』としてのマリがよかったです。

 

・神殺しとしてのシンエヴァ、ヴンダー 

自分のブログ読んでくれた友達と通話してたんだけど、(エヴァの神聖さを剥奪する物語という話を受けて)

「シンエヴァは神殺しの話でもあったね」という話題が出て「そうだな」と。

それは十三号機とかエヴァンゲリオンイマジナリーとかもですけど『エヴァンゲリオン』という神、幻想自体に蹴りをつけるための戦いだったのだなと。だからこそヴンダーが『神殺し』なのだなぁと思ったりしました。

これは思っただけですね。これ以上特に無い。

 

・シンエヴァでようやく庵野監督のメンタル以外にも意識を向け始めることが出来た。

 

色々書いてたり、フォロワーの感想とか解釈とかうわごと読んでたら、ようやくキャラ個別に意識が向いてきたんですよね。

 

私がEOE見て色々解釈して、感じたのは「TV版もEOEも思想は前を向きたいという意志があるのにこの人にとっての現実はシビアすぎる」というのがあって、それは実際にどうしようもなく悪意に満ちた現実も確かに間違いなく存在しているんですけど、なんというか旧シリーズが自分の胸を強く打ったからこそ「これを作ってくれた人はこんなシビアな世界に生きているんだな」というのが色々インタビュー読んだり感想読んだり、自分なりに解釈した時に思ったんですよね。

それが違う角度もある、とシンエヴァで語りなおされたのが嬉しかったのかもしれないです。


こんだけ感動したーみたいなこと書いていてアレですが普通に最近実生活がキツくて結構参っている部分もあって、シンエヴァ前にEOE見直した時すごく癒されたんですよね。

全部がめちゃくちゃになっていく補完前までは本当に露悪的で、辛いんですけど自分の中の色々なしがらみをめちゃくちゃに壊してくれる感じで凄い気持ちがリラックスしてしまう。それでもミサトさんのエレベーター前での会話や、そんな露悪的でひどい世界でも「でももう一度会いたいと思った」とシンジが補完を否定するのは勇気に満ちた意志の話だと感じるし、それでも現実はめちゃくちゃ、でもアスカは頬は撫でてくれる、その上で泣いたら気持ち悪いと拒絶する、そんなバランスが疲れている時は本当に「とりあえず生きよう」みたいになる。誰かの苦しみに自分の孤独とか苦しさが補完されることもある。


シンエヴァは人生の楽しい部分にバフをかける感じだなと。自分の本当に苦しい部分は今より疲れている時には届かないかもしれない。だから、これからの人生で自分の評価がまた二転三転するんだろうなと。そうしてエヴァンゲリオンイマジナリーはまた別の姿に変えるんだろうなと。


また色々自意識の話になっちゃったんですけど、それでもシンエヴァでようやく庵野監督のプライベートフィルムとしての人物造形ではなくて、個別のキャラクターとしてシンジ達を考えられるかもなぁと。


なんというか旧シリーズのifとしてのエヴァキャラについては自分は貞エヴァでだいぶ救われちゃったんですよね。キャラ個別としては「こういう可能性もあったかもな」と。つっても貞エヴァ、キャラが全員別人格なんですけど、なんで別人格かというとアニメ版は庵野監督の人格がそこにあるからで、そう考えると自分の中でキャラの救いとして感じるのは庵野監督の私小説的な側面で……となっていた。

庵野監督関係ない、設定からキャラ救済としては自分は貞エヴァで満足しちゃってたのかもなぁと色々な人の感想読んで思いました。

 

エヴァの呪縛、自分は呪ってもらえなかった

 

自分は九十年生まれなんですけど、リアルタイムでエヴァと遭遇できなかったんですよね。

何か話題が入ってこなくて、アニメが終わって多分劇場も公開された後に貞エヴァで知ったんだっけな?それで見て、最初はホヘーと。なんというか好きだけど熱狂を知らなかったんですよね当時の


それでネットとか見るうちに劇場で「気持ち悪い」→終劇 に遭遇出来なかったことが凄いコンプレックスになっちゃったんですよ。

なんというか私もこういう風にくどくど書いたりエヴァにかなり思い入れはあるんですけど、「リアルタイムでEOEを見て呆然と出来なかった」「呪いを受けられなかった」って気持ちがあるんですよ。どこかで呪われた人たちへの羨ましさがある(それが嬉しくないことでもあるとわかったうえで、なお。『エヴァという物語』を自分は味わいきれていない感覚)


色々自分なりにアニメ見て、作品解釈して、結構自分なりの解釈に10年以上は時間をかけて「これは自分(例え人からの影響があっても)解釈、感想だ」というものに近づいている実感があるんですけど、エヴァに関しては「あの狂乱を私は知らない」ということがコンプだったんですよね。


自分はネタバレが嫌いなタイプなんですけど、それがなんでかというと自分にとっての「終劇」をいつか何処かで見たかったからなんです。人々の間で語られるような「終劇」のショック、虚脱状態、それを知りたかった。
何も知らずに、好きなものを見て、裏切られたような衝撃的なようなショックを味わう。心に傷を残す。そんな呪われる感覚。


まどかマギカの叛逆とかは呆然と出来たんですけど、それはそれとして「うおー面白かった!」という感触で「あーでもやっぱり終劇のショックではないんだろうな」と思ってしまった。


Qではかなり近いものは感じられたのかな、という呆然があったんですが、新劇場版の終わりではなかった。

 

シンエヴァに向けてTV版見てる時に色々実況ツイートしてたんですけど、自分がエヴァ見てる時って設定とかよりも人物造形とかメタファーに目がいくんですね。

それはエヴァをきっかけに強く意識する要素だから。そして今自分は小説読んでいて、人間の繊細な機微が描かれたものが特に好きなんですけど、それは多分エヴァがくれた観点なんですよね。エヴァがなければ多分それだけ自分なりの真剣さ、熱量で作品に向き合うことはなかったかもしれない。


同時に思ったんですよね「あー俺、やっぱりエヴァの呪縛がないな」と。いや俺の仲良い人は「いやお前相当呪われてるよ」とツッコミ来るかもしれないんですけど、なんというか私が思うような「呪い」ではないんですよね。


多分私はエヴァがなくても死なないし、シンエヴァが未完に終わったらそれなりに悲しいけど、庵野殺す!」とか言えない。ファナティックなことを叫べない。
呪われてなかった。好きだっただけなのかもしれない。


そんなことを実感しまして、だからシンエヴァ公開直前の「呪いが解かれるの怖い」「俺からエヴァを奪わないでくれ」みたいな人たちの書き込みを羨ましさ半分で見てたんですよね。自分はシンエヴァ楽しみにしちゃってるなぁという。

 

でもシンエヴァの「終劇」を劇場で見て、

そんな「呪われなかった」という気持ちが逆説的に自分にとっての「エヴァの呪縛」だなだと。
多分、私は日常生活の至る所で「これ、ヤマアラシのジレンマだな」とか「ああ、これTV版の後半みたいなギスギスだな」とか「でもQにも希望はあるし、希望は残っているよ、どんな時にもね」同時に「死にたい、死にたい、死にたい。たすけて」とか思うんですよね。

 

小説を読んでいてもエヴァで得た視点で物語を解釈する。小説を書いていても多分エヴァで得た視点は消せないし消したくない。

シンエヴァでスクリーンに映る『終劇』という文字を見た時、そんな気持ちがめちゃくちゃ溢れて「あー呪い、あったじゃん」って凄くスッキリしたんですよね。あんなに内心コンプだった呪い、ここにあったじゃん、みたいな。


シンエヴァは終わって、これからは当分『庵野監督のエヴァ』から多分前よりは離れた生活になるけどもう自分は生活の至る所でエヴァを感じることができる。そんな『シンエヴァ』をもってしても消えない呪いが自分にもあったことがとても嬉しかった。

 

あー結局自分語りになってしまった。気持ち悪いと言われますね。
でもそんな気持ち。
シンエヴァを見れて本当によかった。ありがとうございました。

 

とりあえず今回の追記はこんな感じです。