えのログ

人生五里霧中

とりとめのないことでもブログは書いた方がいい気がした

 最近すっかり文章を書く回路が錆び付いていて、いや、そうは言っても日常的に思いついたネタをメモ書きしたり、休みの日には少しだけ書き途中の小説を進めたりしているんだけど思考をただ頭の中で流していて、まとめるということを最近はすっかり放棄している。

 以前日記を毎日続けようとして挫折したんだけど、自分にあった出来事はどうやったって限界がある。「仕事があった。つらい。以上」「休み。楽しい。以上」の2パターンだ。

 そんな日々の中でも自分の頭の中で色々なことがあって、以前『私と溝口君』を書いていた時は日記を書くよりもずっと『日記感覚』のようなものがあった。

 思考、感覚は書かないと忘れてしまう。日中色々考えていたのに忘れてしまっていることが多い。だから思考、感覚だけでもとりとめなくても書いた方がいい気がした。今までは書かなかったから。

 

 書かなかった理由に、自分でストッパーをかけてしまっているところがある。ここのところ自分が考えていたり調べていたり興味があるのはコンテンツとかのこともあるんだけど、ジェンダーだったり、相対的貧困だったり、LGBT関係だったり、なんというか政治的なことが増えていてTwitterでアウトプットする気持ちに無理やりブレーキをかけてしまうところがある。

 荒れたくないな、やめておこう的な。

 このブレーキ感覚がやっかいだなと思い。「そういう面倒な話題しないで」という言説は勢いがつきがちで、それはそれで個人の切実な悲鳴を結果として握りつぶしてしまう言説な気もしていて、それは厳しいなぁと思っている。なんというか正直みんなつまらなくなってもみんな不満は出した方がいい。疲れたら自分はログアウトするから。

 でも、このブレーキ感覚は自分が「そういう話題をするべきではない」って抑圧に自分自身がなっているってことなんだろうか? 自分の中でそういう話題は人から嫌われる印象(Twitter2概念とかを見るに)があるんだけど、いつの間にかそれを凄い自分の中の目線に溶け合わせてしまっている気がする。(主語がでかいな、自分と同じオタク趣味範囲の人っていうべきかな? それでもうまく伝えられない気がする。)

 自分の考えたことをツイートして人に批判されたくないという気持ちもあるし、政治観の違いでフォロワーと喧嘩をしたくない、もしくは「こいつ面倒だな」と距離を置かれたくない、という感覚がある。いや、面倒な人間なんですけどね自分は。

 そしてそういうリスクを負ってまでツイートはしたくないなぁという気持ちもある。

 いやもっと言うと個人的なことが、全部イデオロギーに回収されるのが(たとえイデオロギーのない思想なんてないとしても)感覚的に嫌だというのがあるのかもしれない。

 自分がジェンダーだったり、相対的貧困だったり、LGBT関係だったりを調べるのは自分にとって「個人的なこと」であるからだ。自分の中の生きづらさだったり不安だったりを減らしたり、過去は無理でも現在未来の身近な人間関係で知らないうちに踏みつけている人がいるならそれはなんとか減らせるなら減らしたいという気持ちがあるからで、自分の身近な範囲を超えたところまで責任取れないし正直知らないよ〜〜〜ぐらいの投げやりな気持ちもある。個人的なことなのに、大衆の総意になってしまうというか。右でも左でも、本来はグラデーションある思想のはずのにバシッと総意で括られてしまうことへの忌避感。

 そう考えるとめちゃくちゃ自分はエゴイストなのかもしれない。自分のエゴを守りたいからある程度他の人のエゴも守られて欲しいし、権利もあって欲しい。自分の権利に敏感になるなら人の権利にも敏感になるべくならないとダメじゃないか、みたいな気持ちがある。でもきっと取りこぼしているんだろうな、現在進行形で見逃して人不快にさせてるかもとか考えがち。

 でも、最近政治から全くは逃れられないな〜という憂鬱がある。相対的貧困問題だったり、LGBTの権利とかの問題となると福祉であったり法律が絡んで、そういう範疇だと「自分の身近な人との接し方を考え直そう」ではなくなってしまう。

「自分の身近な人との接し方を考え直そう」と思っているだけだと、自分にはない困難を持っている人の苦しさがそのまま残り続ける状況を放置してることになってしまう場合もある。

 だから政治的アクションをある程度考える必要があるぞ、とは思っているし、ある程度自分で考え「その選択を自分は後悔しないだろう」という範囲ではアクションもとってみている、大したことは出来ないのだけどできる範囲は。

 ただこういう風に綺麗っぽく言っても実際「おれ自身の心にあと味のよくねえものを残すぜ」って承太郎が言ってた感覚の方が正しいかもしれない。自分が享受してきた、享受しているものが立場が違うと享受できないことに対しての居心地の悪さ。

 でも他にも自分の中にダブスタがあるよな絶対と、さらに自分のメンタルを刺しにくる自分もいて、同時に「これだけ自分に厳しいからオーケー」と思う自分がいて、「それは傲慢」とさらに刺しにいく自分が……と無限ループ。

 こんなことを暇があるとずっと考えてる。最近考えすぎて疲れた。疲れてもこういう思考のメタ合戦をやるのが癖なので完全に疲労しきっている。止めて、思考を。

 

 

 全然違う話書く。いや、近いかもしれない。

「男性」って小説でどう書いたらいいかわかんないなーってなっている。いや書いてはいるんだけど、内面?みたいなものを。

 自分の肌感覚の「男性」と創作物で描かれる「男性」が違う気がするから、前者を書きたいんだけど、後者と違いすぎて批判される気がするし内面化した自分が批判して筆が止まる。

 男性、自分自身のことを参考に書こうとすると「無理だな」となる。↑みたいにつらつら日記で書いたことを四六時中考えているのが自分を参考にした「男性」になるんですが。

 脳内のイマジナリー読者に「こんな男いなくない?」って指摘されるんですよね。いや、いますがここに、俺が……

 というか実際に「いるかどうか」というより自分の中で「物語で許容される男性ジェンダー」のようなものをなんとなく肌感覚で人の感想を収集するうちに感じ取っていて、「あ〜それにそわないな〜」って書こうとすると思ってしまうって感じ?

 いや、説明しきれていない気がする。

 なんだろうな、自分は小説を一人称で書くんだけど、語り手を男性で考えると凄い気張っちゃうんですよね。「男、書かねば……!」的な。なんだろう、「細かいことをぐじぐじ気にする」、「気持ちの話を考える」のが自分は好きなんですけど、小説で書こうとすると「細かいことをぐじぐじ考えない男がスタンダード」っていうイマジナリー認識に目線を合わせようとしちゃうんですよね。いや正確にはそういう目線に「そうじゃないです」って説明したくなるというか、しないといけないと思ってしまうというか。

「いやこの男は、これこれこういう思考の癖があって、だから色々細かいことを考えてしまうんですよ、これはこの人にとって自然なことなんですよ」と自分が「自然に」考えていることのエクスキューズをいれないといけないような気がするというか。

 でも自分にとって「自然」であることをいちいち説明したくないんですよね。間違っているのはお前らだろ!感情はどこいったんだよ!ぐらいの気持ちがある。でもそんなこと言ってる人本当にいるのか、いないかも、わからん……

 でもそれを内面化しているから……書いている途中で「これ読者がひっかかるかもしれない」とか考えて筆が止まり……(というか読者もそんな不特定多数ではないのに……むしろフォロワーさんとかで自分をある程度知っている人が読んでくれるほとんどの人なのに……)

 なんだろうね、逆に異性への勝手な憧れを強くしているとも取れるのかな? 「こういう気持ちの話をしても違和感もたれないだろう」的な。これも舐めな気がして良くない気がする……本当は異性であっても内面というか自分の気持ちについてこだわるの、現実ではエクスキューズを求められるんだけど、それを自分は知らないから異性だったら書けるとか思ってんのかな? それは思い上がりでは?

 とかずっと考えると思考が袋小路に入って筆が止まるんですよね。

 うーん「男性」を書けるようになりたいなという気持ちがあるということを書きたかっただけです。なんだろう「男らしい男」「男らしくない男」の軸じゃない男性というか……男性は男性でそんな型にハマっただけじゃない気がしているんだけど、それをうまく語る言葉がまだ手元にない感。まぁ思い出した頃にチャレンジします。

 土日は小説を書き進めたいと思っている。

 おわり。