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人生五里霧中

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』感想。『再生産の物語』自体の再生産。

cinema.revuestarlight.com

 今日は朝から映画館にいって「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」とシンエヴァ見てきました。二時間ぐらいの映画をほぼぶっ通しで見たので疲れた……

 エヴァはもう何回見たかわからなくなってきたけど、やっぱ良いですね……多分まだ何回か見るかなぁ多分。エヴァTwitterとかでもグタグタ言い続けるんですが、スタァライトがちょっと想像してたより良かったので感想を忘れないうちに。(といってもスタァライトエヴァだったせいでだいぶ記憶が早くも薄れている……)

 いや〜でも面白かったですね劇場版。

 一応ですが、ガッツリネタバレあります。

 

 

・再演、再解釈=再生産という物語『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語の再生産。

 

 予習と復習としてロンド・ロンド・ロンドも見ていたのですが、レヴュースタァライトというアニメについて徹底的にエンタメであることを自覚的な作風だなと再認識してました。

 

 

 

 

 

 

 

 TV版(劇場版もですが)が『再生産』というキーワードを中核に添えつつ既存作品の構造であったり演出と重なるように作っていて、それはネットでよくあるムーブである「実質◯◯」的な感情を受け手から半分意図的に引き摺り出し、別の物語(レヴュースタァライト)を見せるという試みだったと思います。

 メタ的に再演をしたその上で、作中でも『スタァライト』を再演する、輝きを求めて舞台少女たちがオーディションで競うという構造と、そこに存在する搾取性も自らを再生産し続けることで超えていく、というエンタメの構造に自覚的に展開していったという意味でだいぶ面白かったなぁと。

 

 今回の劇場版はそこからさらに止揚して、「じゃあ、『レヴュースタァライトというアニメ』自体を再生産しよう」という試みだったなと。

 

・徹底した露悪描写、別の角度からキャラクターを再生産する

 

 今回、皆殺しのレヴューに始まり、かなり刺激的な映像が連発されてましたね。同時にTV版のそれぞれ綺麗に決着がついていたようなところをひっくり返しオーディションの対決に臨ませる。

 これはかなり見ていて「おっ!」とテンションが上がってしまった……なぜなら私は相対化大好き人間のため……

 

 

 

 自分は割と(作品を気に入ってる場合は)作中のメッセージをなるべく(自分の頭の中で勝手に想定した)作り手の意図した方向で受け取るようにしている癖があるんですけど、レヴュースタァライトはそういう癖がだいぶ強く出た作品でもあるんですよね。

 それぞれにスポットが当たっていても、現実的に勝敗が決まる、選ばれる人が限られている、というのはいくらでもある世界。また、時間経過で人間関係には必ず変化が起きる、良い意味でも悪い意味でも。

 なのでそういう意味で今回各キャラ、各関係性に上がった視点というのは既にTV版でだいぶセットされていたものではあったんですよね。

 TV版でそこへのエクスキューズが全くなかったわけじゃなく、「そういう現実があるけど、彼女たちの輝きは本物だし自らを再生産していくよ」という風に描かれていた、と思います。

 ただ、今回の劇場版はそこを「いやその問題は実際ありますが???」と言わんばかりに畳み掛けてくる、それを刺激的な絵面で叩きつけてくる。

 これ、「上手いなぁ!」と素直に感心してしまったところで、ここを変に地に足ついた感じでやろうとすると却って綺麗にまとまってたTVシリーズに対しての余計な茶々になりかねないんですよね。上のツイで書いた様に相対化は、それ自体に満足していた人たちにとって露悪になり得る行為なので。

 だからこそ徹底的な露悪描写で刺激的に、魅力的に描く。なぜならそんな刺激的な物語に魅了されるのをキリン=視聴者は待ち望んでいるから。

 ただ、それは露悪に終わるのではなくそれすらもかつて『レヴュースタァライト』で描いてきた再生産で超えていく。全く同じ展開に着地するのではなく、各々の進路や関係性は変化を見せてそれぞれの輝きがTV版以上により消えることのない強固なものである、というのを提示していく。

 卒業、というのは作中でひたすら繰り返されていましたが「卒業しても彼女たちは大丈夫です」というのを強く示すための物語だなと。『卒業』があるコンテンツは大体この手のテーマを内在していますが、そこに偏執的に自覚的なのが『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』だなぁと。

 あと俺はまひるちゃんが好きです。すごくよかった。

 

・物語に取り込まれるキリン

 キリンが物語に取り込まれ、エネルギーとして燃やされてしまったの少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語の再生産だなぁと。再生産をテーマにした『TV版レヴュースタァライト』という物語の上では物語を俯瞰する視聴者のメタファーとしてのキリンでしたが、それ自体を再生産の土壌にした『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』にしてしまうとキリンすらその再生産の輪の中に取り込まれてしまうんですよね。

 なぜなら私たちが『レヴュースタァライト』という作品を語る、考える時に必ず『キリン』という存在はメタファーとしてだけではなく、『キリンというキャラ』として解釈されてしまうから。

 これはだいぶ制作陣の徹底した自覚的な目線があるから出来たことだなと。キリンという装置は、装置として優秀だったが故に物語の土台に乗ってしまう。

 だからこそキリン不在の時の華恋とひかりの最後のレヴューでは劇場で鑑賞している私たち自身がその役割として物語が展開する。終盤の怒涛のメタ発言と重なった自己言及の会話はめちゃくちゃニヤニヤしてしまいました。なぜなら私は作品のメタ発言が大好きなキリンの一頭……わかります。

 

・『TV版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語の完結/愛城 華恋という主役キャラの物語エネルギーの完全燃焼/再生産

 

 劇場版では各キャラの再生産が上で書いたみたいに行われていくんですが、その上で愛城華恋はそのオーディションにすぐには駆けつけません。

 それは語るべきことがないから。もう既に彼女の主題は本来TV版では終わっているから。

 上の自分のツイ引用でも書いたんですけど愛城華恋って単独だとキャラとして成り立たないというか、それだけだと多分今のエンタメの中で主役を張るのが難しいコンセプトのキャラなのかなぁと。(想像には過ぎないんですが)

 だからこそTV版では「二人でスタァになる」と成功の定義自体を再解釈し、自分自身を再生産することで物語に参加できなかったはずの番外から主役に成った。

 愛城華恋が『TV版レヴュースタァライト』で持っていた物語エネルギーは「二人でスタァになる」というキーワードからのテーマ性で、ひたすらそれを燃焼させて物語を駆動させてきました。

 物語には余白が生まれます。テーマだけを語るのならば箇条書きで済んでしまいますが、それを人々の心情に訴えるためには起承転結を伴った物語を、キャラクターを作る必要がある。 

 そんな余白が愛城華恋以外の舞台少女たちの『再生産』の土台です。物語を駆動させる上で生まれ、語られ終えていないキャラクターたち。それが今回の劇場版で角度を変えて語られ、再演される=再生産。

 では愛城華恋は? となるともうない。余白がない。「二人でスタァになる」という主題について演じきった。サブエピソードとしての余地は残っていても、本筋として駆動させるだけの物語エネルギーはない。

 キャラクターとして、死んでいる。

 それが作中での舞台少女の死→愛城華恋の死かなぁと。

 ではどうするか? というところから描かれたのが今回の愛城華恋の過去だと思うんですよね。

 かなり劇場版の中でもイレギュラーな描かれ方だなと思っていて、愛城華恋だけは要素を足しているんですよね。他のメンバーは、提示された要素を別角度から再解釈に対して、TV版を二次創作するような形で過去を提示している。

 作中でそれまで出ていなかった(キャラとしては出ていなかったと思う……)母親や、中学時代のクラスメイトたち、そして神楽ひかりについての好奇心。

 愛城華恋不在について「役作りの最中」とキリンは言っていましたが、まぁ自覚的なセリフだなと。今回、愛城華恋だけはそもそもの土台から作り直しみたいなものだと思うので。

 企画コンセプトとしては、TV版からあったのかもしれないんですけど、なんというか「実はこうだった」というニュアンスというよりは劇場版に合わせて、『愛城華恋というキャラクターを再生産した』という感じかなぁと。それこそ、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語を劇場版として再生産したように。

 

・誰かが「実質スタァライト」と思えば永遠に『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』、も『愛城華恋』も続く。

 

  (ここらへん、自分の中で「こういうテーマだな!」という感想持ったとこまでは覚えているんだけど、シンエヴァそのまま見たから具体的な論拠忘れちゃったよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜なんだっけ!)

 ただ、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語が終わった後にも、その作品の因子のようなものは残るわけです。それはそれを受け取った人たちが認識して伝えていく限り、続いていく『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語=『愛城華恋というキャラクター』が終わっても人々がそこの影響を再生産し、語り直す限り舞台は続いていく。

少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は「うーーーーんこれは実質◯◯!」という感想を引き出すような演出だったり、展開が多い作品だったと思うんですよね。でも、多分そういう風な今の(いや今じゃないかも。古いかも・・・)感想を持つオタクの知らないルーツだってあって、それを再生産して言及元の作品があるはずなんですよね。もっというなら作風だけじゃなくて、演技だったり、キャラデザだったり、ありとあらゆるところに「再生産のマテリアル」があるはずで。

 だから『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を「実質◯◯」という参照元を持たない人からすれば、これから未来、何かのコンテンツを見た時に「うーーーーんこれは実質スタァライト!」と思う(表現は違えど多分似た感情も無限に再生産される)んじゃないかと。

 そういうの愛城華恋が最後、オーディションを受けているところにつながって、劇場版の終わりになるのかなと。

 

 ざっくり書くとこんな感じ。各キャラについても色々見てる時は思ったんですけど、語れるほど精度を持って記憶できてないな〜〜〜〜〜〜〜〜もう一回見たいですね。パンフ買おうとしたら売り切れだったので、それ買うがてらに……

 始まりから終わりまで、エンタメである、ということに良い面、悪い面も両方に自覚的に作った作品だったなぁと。

 舞台版、タイミング逃して見てなかったんですが見てみようかなぁ。

 いやーでも今年映画館での満足度がすごい高い感じで嬉しい。そんな感じでした。