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人生五里霧中

打ちのめされる 藤本タツキ『ルックバック』

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 すごい人の『すごい様』を見ると打ちのめされます。NHK庵野監督のプロフェッショナルを見た時もあまりの徹底したこだわりに落ち込みました。

「ここまで俺は出来ない」という感覚。もちろん自分はアマチュアで、年齢も違い、積み上げてきたものも違うのですが、その「こだわり」の部分で仮に自分が同様のスキルを持っていたとしてもそれだけの執念を持てない、という気持ちに打ちのめされたのです。ブログでもツイッターでもラジオとかでも延々言って書いているのですが自分はエヴァが好きです。それでも自分はアニメについて『絵の動き』の凄さ、みたいなものを理解する感性、積み重ねに乏しいのでその凄さというのをほんの一部にしか理解出来ていません。プロフェッショナルといった番組のこだわり、カラーのTwitterなどで出されるメイキング、全記録集などからその凄さを徐々に理解し、何度も見ることでようやくその凄さを朧げに理解していきます。

 庵野監督のプロフェッショナル回に僕が打ちのめされたのは、そうやって徐々に理解していた『凄さ』の部分を自分が一度に浴びてしまったからでしょう。

 

 じよらじの最新回なんかでも言ったのですが、自分はコンテンツに触れる時に『彼氏ヅラ』をしたがります。彼氏ヅラというのは作り手と受け手の共犯関係のことです。作り手が忍ばせたテーマ、メッセージ、祈りのようなものを受け取った時にそれは「私はこの作品を受け止めました」という気分になります。それは生きていて孤独を感じた時に、確かに自分と重なり合う何かを持っている人がいるんだ、ということでとても自分に勇気であったり希望を与えてくれます。もちろん、それはただの錯覚で夢なのですが。

 

 すごい人の『すごい様』を見るときっと、そうして仮初の共犯関係で感じていた親近感以上の『距離』を否応がなしに直視するから打ちのめされるのでしょう。

 自分は趣味で文章を書いていても、それで何も成せていない。自分の好きな、自分を救ってくれたようなコンテンツと比較した時に自分が作れているものというのは「なんなんだろうな」という気持ちがあります。

 それはネガティブな意味だけでなく、確かにその瞬間楽しかったり、輝いていた時間が作っていた時に存在するからこその「なんなんだろうな」という感じです。

 意味、人生における意味みたいなのもを考えてしまうのです。きっと作って、それが何か爪痕を残すことなく消えてしまう、生きる上での無常に近いものを感じます。

 

 話が大きくずれたのですが、自分は漫画はアニメよりも(おそらく)解像度を高く読んでいます。それはアニメ以上に繰り返し触れることが容易であることや、自分の慣れ親しみの差があるのでしょう。

 タツキ先生の『ルックバック』はそういうのもあって、作品を読んだだけで「ああ、これは凄いな」と打ちのめされてしまった。

 絵的な強さ、というのはもちろんあるのでしょうが自分はそこへの感性がやはり弱く借り物の言葉にしかならないのであまり触れないのですが、『書く/描くということ、それを選んだこと』の物語なのかな、ということを読んだ時打ちのめされながら感じました。

 

 天才、という言葉を使いたく無いなとも思いました。

 

 チェンソーマンなどでも思ったのですが、タツキ先生はだいぶ引用の作家で、それを全面に出していてそれが『映画的』と形容されるような独特の空気感に繋がっているのでしょう。(僕はニュアンスとしてはわかるのですが、それを言えるほど映画を知れていない……と思ってしまってその表現を自分の言葉として使えないのですが)

そして『ルックバック』で書かれているさまざまな感情、それは「少しズレてはいる」けれど凡人として作品を読む自分の人生の節々で感じてきた感情だと思うのです。なんというんでしょうか、何もかも最初から出来た人の感情ではない感情、気持ち、考えみたいなものが作品として結晶になって出てきている。

 

 もちろん、それすら計算で描ける『天才』の可能性は捨て切れないんですが。

 

・京本に絶賛された藤野、帰り道

 

 藤野が京本に作品を絶賛された日の帰り道の感情。わかりますよ。いや人の感情は俺にはわからないんですけど、自分にも確かにそういう喜びの瞬間があった、というのを痛感するんですよね。ただ感情が示されたのではなくて「こういう時にこういう言葉が渡されたらきっと自分は跳ねるくらい嬉しいだろう」ってのを漫画で叩きつけられる。

 藤野が京本に絶賛された瞬間って、ただ天才だと思っていた相手に褒められた、ってだけじゃないんですよね。藤野の喜びは確かにクリエイターの喜びでもあり、それは作り手と受け手の共犯関係がこの上なく美しく成立した瞬間なんだと思います。

 だからこそ、読者である自分も嬉しくなる。なんでしょうね、作ってもらって提供してもらえてそれを楽しんでいるだけの自分も、作り手に何か返せているんだ、という感触があって認められたかのような気になるのかな。いや言語化すると自分がダサすぎるのですが、そういう手触りがありめちゃくちゃに感動してしまう。

 そして同時に藤野の視点でも嬉しいんですよね。何かを書いて、人に見せて、褒められた時の嬉しさ。創作の原体験的な嬉しさを一気に引き摺り出されるところがあるんですよ。もうこの時点で一本の読み切りとして感動し切ってしまった感じすらする。なんならこの文章書きながら読み返して泣いてますからね俺。月曜日の朝から俺は一体何を……

 こういう気持ちの瞬間を書き出すのが凄まじく上手い。チェンソーマンの時以上に洗練されている気がします。

 

・どうして描くのか

 

 読み切りでありながらも色々な人生の瞬間があり、一つに語るのは却って他のことを削ぎ落としてしまうな、と思いながらもこうして文章にするのですが『ルックバック』で描こうとしていたことは「なぜ描くのか」という自問自答であるように思えます。

 藤野、京本、藤本タツキ、シンプルすぎるギミックですが二つの作者である藤本タツキ先生自身のペルソナを分けてキャラクターにした(もしくはそう読者に錯覚させる)のでしょう。

 

 書く/描くというのは可能性をなくすことだと思います。頭の中では世界を揺るがす大傑作も、形にしようとしていくにつれて「あれこんなにつまらなかったか」というのはアマチュアである自分自身小説を書いていて感じます。それは頭の中にあった無限の可能性が『作品』という形になるにつれて「自分のできること」の制約の中でしか表現できず、あるいは自分自身の頭の限界を突きつけられてしまうからです。きっとこれはどんなに『凄い人』であっても感じることなのでしょう。どれだけ傑作を描いている人でも「何か足りない」「もっと上があるかも」という懸念が捨てられず、だからこそ技術を磨くのでしょう。

 何かをアウトプットするというのは、それを自分だけの言葉でなくすことです。作品というのは生まれて、受け手の元に辿り着いた瞬間には作者の意図とは違う風に解釈されて変質します。自分の想定通りに受ける場合もあれば、全然想定外のところで評価される、あるいは気合いを入れた点がまったく評価されないこともあるでしょう。

 

 そんなことを藤本タツキ先生も連載をしながら感じたかもしれません。

 

 作品を作る、というのは可能性を削ることです。それは「傑作が生まれる可能性」だけではなく、人生の可能性を削ることでもあります。

 その作品を作っている時間で人と遊べた、何か別のことをできた、他の人生を歩めたかもしれない。藤野が小学生の時に漫画をやめようとして友達とアイスを食べたり家族で過ごしたことが象徴的でしょう。いくらでも人生には別の可能性が転がっていて、漫画さえ描かなければそれが手に入るかもしれない、いや、限りなく確実に手にできたでしょう。

 もしかすると、タツキ先生自身の葛藤もあるのではないかなとすら穿った見方をしてしまいました。最近、ネットでも周知されているわけですけど週刊連載って過酷ですよね。ジャンプの人気漫画になって十数巻、何十巻と連載したらひたすら漫画を描く生活になり、連載が終わって年数が経過した後にはきっと「漫画だけを描いていた自分」が残るんですよ。それに意味づけをするのは本人です。外から幸せも不幸も言えないですが、それは浦島太郎のような感覚があると思うんです。

 

 でも、藤野は描いたんですよね。現実でも京本を救った妄想、あるいはifの未来でも。

 当初、「京本の絶賛」で再起したように見えますが、本質的には違うのだと思います。藤野はただ「描きたいから描いた」のだということだと思います。それが藤野の出発点なんだと思います。

 人に褒められることは嬉しいです。陶酔されることも、受け手と共犯関係を作ることも全て楽しいと思います。

 ただ、実の所その喜びって世界にはありふれています。 

 きっとどんな仕事であっても作り手と受け手がいて、そこに楽しみさえ見出せば『ルックバック』で描かれたような喜びは確かにそこに存在するのだと思います。営業でもSEでも教職でも人事でも総務でもなんでもきっと。

 ではなぜ描いたのか。

 それは『描く』という方法でそれを得たかった、『描く』ということがどうしようもなく好きだからでしょう。(好き、という言葉で簡単にまとめていいのかはわからないのですが)

 もうそれは衝動に近いのかもしれません。他にも名声や富を得る手段があっても『描く』ことが好きなのだと思います。

 だから京本を救った、漫画を描くのを止めていたifでも漫画を藤野は描いているのではないでしょうか。

 

 ただそれはだからといって京本と漫画を描いた喜びが嘘であるわけではありません。そしてそれこそが現実世界の藤野が再起する理由だと思います。描いて、描いて、描いて、読まれて、嬉しくて。そんな藤野にとっての原体験が『シャークマン』の作者としての『藤野キョウ』を形作っている。それはきっと世界中にかつての京本がいるってことなんですよね。藤野が漫画を描いて、世界に届けることでそんな瞬間が無限に繰り返されている。

 人と人との関係で人生は形作られています。もう『今』の藤野にとっては「描きたい」と思うことはプロであり必ず読者がいる以上、個人の意思に止まらない行為になっているでしょう。だから自分が上で書いたみたいな「描きたいから描く」を超えたところになっているのではあると思います。

 でも、それもまた藤野の人生なんですよね。藤野が「描きたいから描いた」ところから読者との共犯関係が生まれ、それがいつしか自分の一部になって、それを思い出してもう一度描くことを決めたというか。

 

「どうして描くのか」という問いに対して、アマチュア的な「描きたい」がプロフェッショナルとしての「描きたい」に変わる話でもあるよな〜とか今書きながら思いました。

 

 なんだろう、もう勢いでこうしてブログを書いてしまったので何が書きたかったのかもちょっとめちゃくちゃになってしまったんですが、いや面白かったです。それが書きたかった……こんなワンツイートで済むことにグダグダと語ってしまうの、もう性なんですよね。これから俺は労働なのに俺は……俺は……

 

  もうちょっとまとまったらツイッターとかでも感想書いたりするかもな、と思うのですが思ったことをとりあえず書き散らしました。