えのログ

人生五里霧中

どこまでも自由に歩いていけるということ。舞城王太郎『真夜中のブラブラ蜂』の感想。

 

 

 

 散歩が好きです。

 歩いていると血流が良くなる感じがあって考え事が捗ります。小説とかブログの内容とか、色々個人的な考え事がある時は散歩をすると自分の家に引きこもって考えているよりも視界が開けるような感覚がして好きです。

 でも、もっと言うのならばそういうアウトプットに関係なく散歩が好きな気もします。

 それは身体的に今いる場所が変わることで、それまでの自分の文脈、しがらみのようなものから自由になる感覚があるからかもしれません。

 自分の場合、仕事をしている時など顕著に感じるのですが不自由を感じます。自分の選択ではなく、「そうせねばいけないから」という規範に従っているような心地がします。

 それはとてもつまらないし、生きている甲斐のようなものがない感覚がします。

 散歩をしている時はそんな日々の自分の感じている限界が、案外自分の想像でしかないのかもしれないという感覚を身体を通じて理解が出来るから自由を感じるのかもしれないです。

 

 そんなことをこの『真夜中のブラブラ蜂』を読む前なのか読んだ後に「そう考えていたことにした」のかはわからないのですがそういう感覚が自分の前提であって、「なんか舞城王太郎の作品の感想をブログに書いていくか」と思い読み返し、改めて「真夜中のブラブラ蜂、好きだなぁ」と思いました。

『真夜中のブラブラ蜂』は『キミトピア』という短編集に収録されている短編で、主人公の網子が子供の純一が大学進学で家を出たのをきっかけに何か新しいことを始めようとした結果、ブラブラと当てもなく散歩あるいは旅をする楽しみに目覚めて、その結果離婚することになる……みたいな話なんですが、これが本当に面白い。いや、舞城王太郎の短編は正直全部私は面白いと思っているので何の参考にもならないのですが。

 

 この短編が好きなところに、ブラブラする、という行為を通じて網子がどんどん自分にとっての「好き」に注力していく、自分を取り戻していく過程が描かれているように感じるからです。

 

 人は生きているうちに様々な役割(文脈と言ってもいいかも)を自分に重ねていきます。

 同短編集の『やさしナリン』の冒頭でも書かれていましたが、人は《男》だとか《女》だとか《会社員》だとか《主婦》だとか《ツイッタラー》とか《作家》とか《アイドル》とか《youtuber》としてあるわけではなくて、私の場合は《えのき(まぁこれはハンドルネームなので実際は本名という想定で)》であって、ブラブラ蜂の主人公は《網子》でしかないんですよね。

 ただ、生活の上で「ある程度」はその役割に大なり小なり合意して、人との関係をやっていくわけですよ。

 自分は最近不満タラタラなので転職を考えたりやったりしていますが、会社にいる時は《会社員》としての顔をしているわけですし、youtubeでラジオ動画撮っている時は《素人ラジオパーソナリティ》みたいな顔をしているわけです。

 それは合意をしている上では楽しみもあったり、やりがいもあるわけです。仲の良い人にとっての『いい友達』っていう求められる役割をばっちしこなせると(いちいちそんなこと考えてコミュニケーションしてないが)、気持ちのやりとりみたいなものを(たとえ錯覚だとしても)感じて嬉しくなるわけですよ。

 

 本作の網子も物語開始時点ではそういった役割を多く着ていたわけですよね。《母》であったり《妻》であったり《主婦》であったりと。

 

 ブラブラ蜂が「面白いなぁ」と思うのは、一見すると『ブラブラ』という特に何かを生み出すわけではない、生産性のない行為が網子自身の喜びを再発見させて、眠らせていた『自分』を取り戻すところにあると思うのですよね。

 私が日常で生活していて強く感じるのは、どのような行為にも生産性だとか効率性を求め続けられているなぁというところで本来「自分が心地よく過ごす」という観点で言うのならば生産性も効率性も必要ないのですよね。ただ、そこに自分の感じる「好き」であったり「心地よさ」があったりすればいい。

 

 ブラブラ蜂の網子はそういった生産性、効率性、からただブラブラするということでどんどん脱却していく。そこが痛快ですらある。

 

私は暇を潰しているんだろうか。

私がやっているのはそういうことなんだろうか?

違う。

私はブラブラしたくてしてるのだ。

これがやりたいことでやるべきことなのだ。

P.331

 

 やりたいことがやるべきこと、と思えるのは本当に強いことです。

 自分の「やりたいことをやる」というのは歳を取るにつれて難しくなっていくなぁと感じます。日常で行為の価値を求められることが増えていくから。

 でも実際のところ生産性とか効率性って命にとって後付けの概念みたいな感覚がするんですよね、個人的には。そもそも動物とかは生産性なんていちいち考えて子作りとかしてないわけだし。

 

 ただ、それを守り抜くのはとても難しい。

 

 Youtuberとか見ててもですが、大抵の「面白いこと」っていつしかお金に結びつくんですよね。Twitter漫画とかも書籍化して商業デビュー!とか。それはもちろん良いと思うんですが(本人が望む限り)そういう前例が積み重なっていくと、そういう行為が仕事を生み出す行為になっていくんですよね。

 個人の楽しみとして突き詰めるなら最終的に「利益を生む」ことだけがゴールになるというか。

 網子のブラブラはそういうものとは異なる「個人の楽しみ」を死守しようとしていて、作中でもたびたびそれに対して圧がかかるんですよね

 網子への信介の言葉で「自転車でふらつき回っても何も生まないじゃないか」みたいなセリフも出てくる。

 そういった夫の信介の言葉への反発とかがやがて夫婦の終わりになっていくんですけど、これもまたそういう生産性みたいな価値観を内面にインストールしてしまった人、それをアンインストールしてしまった人の差異なんだろうな〜と。

 

「うん。あのね?思ったんだけど、私たち、夫婦としての機能はもう終わってるよ。多分純一を育て上げた時点で終わったの。子供が出ていって、じゃあこれから二人だけの人生だ、ラブラブで楽しみだねって感じじゃなかったじゃない?私も信介も」

「……」

「責めてるんじゃないよ?もちろん、二人の話だから。純一がこの家を出ていって信介はこれまで通り、私は新しい道を探さなきゃって、自然にそういう流れだったじゃない?……つまりさ、私たちはいつの間にか、純一を育てるための装置みたいになっちゃったんだよ。愛情が、その装置の、潤滑油としてしか働かなくなっちゃってた……」

P.366~367

 

 舞城王太郎は家族の話をたびたび書きますが、「家族」というものの希望を書きつつ、そこに愛とかがなくなってしまって、パブリックイメージ的な「家族像」が回らなくなっている様をよくもまぁこういう視点で書くなぁと痺れてしまう。

 《母》《妻》《主婦》といった役割で過ごしているうちに《網子》という個人が持っていた愛情とかが消えてしまっていて、それしかなくなっていた。というのはなんとも悲しい。

 

 作中で描かれる夫の信介や息子の純一の止めようとする様子もまたその役割で回っていた《家族》という共同体が壊れてしまうことを食い止めようとしての言葉なので、《網子》という個人を止める理由にはなっていないんですよね。あくまでも《妻》や《母》の言葉になってしまっている。

 なんともまぁこの周囲の反発や戸惑いが書けたものだなぁと。

 

 決定的な軋轢が見えて、網子が部屋にこもり切ったときの言葉。

 もはや生きるか死ぬか、殺すか殺されるかまで辿り着いてしまったのだ。といったことも書かれていて、《舞城王太郎》はとことんヒューマニストだなぁと思うところ。その人にとっての尊厳みたいなものが奪われるのなら、それは生き死の話ってことかと。

でもそういうところが自分は読んでいて本当に好きだなーと。尊厳は大事なので……

 

 『真夜中のブラブラ蜂』はそういう感じで役割とかからの解放をブラブラを通じてやっていくことだけど、そこの正反対だな〜と連想したのは遠野遥の『破局』とか。

 

 

 これはこれでそのうちブログ書くかもしれないですが、『破局』は完全に個人の感情ではなくて生産性とか効率とか、ただ求められる《役割》だけに徹してしまった人の終わりなんだよな〜とか思いながら読んでた。『破局』の涙流すけど理由がないから涙を流すのはおかしいとか考えて涙止めるシーンとかはヤバすぎる。

 

 話がずれた。

 ここまでの感想だと、ただ解放みたいなものを是と書いている感じだけど、舞城王太郎のバランス感覚ってすごいな〜というか人間観すごいな〜と感じるのは夫の信介とか息子の純一についても同情的な目線とかが書かれているんですよね。

 個人としての愛情は消えてしまったけど、それは《家族》みたいな概念が愛と思っていたから、自らも役割に徹してしまった悲しみというか。

 

「何でだよ……こんなこと、どう説明するんだよ……!親とか純一に……!」

 それを対面や面子を守りたい自己保身的な台詞としては聞かない。それは家庭を守りたいと思う男の台詞で、家庭こそが信介の愛情を注いできた場所なのだ。それが破壊されようとしている今、愚痴くらい出て当然だ。

P.370

 

 こういうシーンを邪悪さとかじゃなくて哀しさみたいに描くのが舞城節だな〜と。

網子自身も自分で望んだことだけど、そこに全くの悲しみがないわけじゃない、という感じの塩梅が見事。

 

 あとブラブラ蜂、すごいと思うのが、こういう個々人の話から脱物語的な話としてもこの話を書いていること。

 

「アハハハハハハハ!これでお母さんのブラブラにも理由がついたね!」

「?どういう意味?」

「運命がお母さんをノース・カロライナまで運んだってことだよ!」

P.382

 

 網子のブラブラが行き着いた先にアメリカで散歩中に事件に巻き込まれて人を救ってニュースになって、と大騒動になることを受けて息子の純一が上みたいなことを言うんですよね。「自分の好き」を貫いてある種の物語化から逃れるのって難しいんですよね。Youtuberだったら収益化されて「あの時の無意味に思えることに意味があった……」的な文脈に絡みとられるわけですよ。

 網子の場合、ただのブラブラが「ノース・カロライナにたどり着くため」という運命論としての物語が提示される。

 ここら辺、人と違う生き方(それこそちょっと昔のブロガーで食うとか)が結局、物語として既存のフレームに回収されちゃうみたいな難しさ。

 

「私のブラブラを、何かのためのものにしないで。私のブラブラは、私のためだけのものなんだから」

P.383

 

 だからこそ、この網子の言葉は美しさがあるんですよね。この後、網子が涙を流すように、ブラブラを貫くことで網子も自分で望んでとはいえ家族を失っているんですよね。

 もし、「それがブラブラの意味だった」と物語を受け入れたのなら、その《家族》に戻ることもできたんですよね。

 

 でも、戻らない。上記の台詞でブラブラを自分だけの楽しみとして貫いていく。

 こういう物語からの脱却を物語で書く。痺れる〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 とまぁなんかダラダラ「ここ良かったなぁ」といったこと書いてたら長くなってしまった。

 舞城王太郎の好きな作品の解釈、あまり見てないし、自分もツイートとか読書メーターでしか書いてな気がしたのでちょくちょく書いていこうと思います。

 ではまたそのうち。

 

 あと『畏れ入谷の彼女の柘榴』明日発売ですね。読もう!