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人生五里霧中

深夜百太郎の好きな話について書く 九十一太郎『迷子の守護者』

 

 

 ながやまこはるちゃんが深夜百太郎の話をして再放送がちょっと前にありました。若干出遅れた感があるけど好きな話が結構あるので一つずつでも書いていこうかなと。

 

 ※横内さんも当然面白いので是非。

 

 深夜百太郎はTwitterで連載されていた舞城王太郎の百物語で、百物語と言うからには結構な話がホラーなんですけど、舞城王太郎節がそれぞれに効いていて単なる幽霊とか化け物的な恐怖とはまた違った味わいがある話が結構あります。『迷子の守護者』もそんな話の一つです。

 語り手の『僕』は迷子になった経験から「出かけると迷子がいないかつい確認してしまう」ようになるんですが、とにかく迷子をどんどん見つけてしまう。そんなことが重なるうちに家族も(毎回迷子を見つけて和が乱れるので)迷子を見つけることに対して不快感を露わにし、家族の輪からも排斥されていき……みたいな話なんですが、こういう導入からは予想と違う展開になるので気になる方は是非。

 

 

 

 ここからはもう少し突っ込んだ話。

 この話なんですが、自分は社会から不可視になっている困難とか差別に苦しむ人たちの象徴として『迷子』というメタファーが用いられているのかな〜と思っているんですよね。迷子というとディスコ探偵水曜日のディスコも迷子を探す探偵だったり、迷子というのが単純に道に迷ったとかだけじゃなくて、この世のあらゆる理不尽に塗れた存在として書かれていたりします。舞城王太郎のよく使うモチーフなのかもしれません。

 

 

 

 そこから延長していくと、『迷子の守護者』の『僕』が家族の輪から排斥されていくのもわかる気がします。この世で不可視となっている存在、マイノリティといっても良いかもしれません。そういう存在がいる、という話を聞かされるのはその存在を「ないもの」として生きている人々にとって(自覚的にしろ、無自覚にしろ)都合が悪いからです。

 これは結構肌感覚の話なんですが、「いじめ、差別はいけないことですか?」と質問されたとして大抵の人は「そうだと思う」と言うと思うんですよね。でも、そういう人が無自覚に、あるいは「これは仕方のないこと」と例外処理をしていじめとか差別をしている、っていうのが現実にあるいじめとか差別の構造かも〜とか思っているんですよね。

 大抵の人は「困っている人がいれば自分は助ける」と思っている。

 んで、そういう人にいちいち「こういうことに苦しんでいる人がいますよ!=迷子がいますよ!」って言うのってかなりリスキーです。

 困っている人がいたら自分は助ける人間だ、無辜の民だという自己認識がある人にそうでない現実を見せることはその人の自己像を揺るがすからです。

 そういった自己認識と突きつけられた現実にギャップが生まれた場合どうするか?自分の認識を修正する、という手もありますが手っ取り早いのは突きつけられた現実を別の解釈で変えてしまうことです。

『迷子の守護者』の『僕』が家族から非難されたのはこういう心理の流れがあるよな〜と思います。

 

「こいつは迷子探しが趣味だから」

 なんて父親には言われてたけど、別に楽しいことでは全然なかった。

「可哀想な奴が好きなんだ」

「自分が偉いと感じたいだけだ」

 別に。楽しいことのほうが好きだし、迷子を助けるだけで自分が偉いなんて思ったことない。当たり前の範疇で、自分ができる範囲のことをやってるだけだ。

 と、言ってはみたが、何故か家族は皆僕のことを蔑むだけだったし、迷子が関係なくても僕のことを蔑ろにしようとするので、僕の中に危機感が生まれる。(P,413)

 

 家族は『僕』が単純な善意ではなくて、なにかしらの精神的な見返り目当てでやっている、という風に認識することで自己像を守ろうとしているよな〜と。

 

 作中の『僕』は自分の迷子経験から人と違う視点を持ち、それで迷子を見つけますが、人と違う視点で世界を見る、というのは他の視点を持つ人々からすれば異物になってしまいます。それによって家族に捨てられ、それでも迷子を探しているある、黒服の男に連れていかれる迷子を見つけます。

 黒服の男はこの話で一番ホラー色の強い存在です。迷子を連れて行き、壁の中に誘拐してしまう。『僕』の推測ではたくさんの迷子が壁の中に連れ去られ、帰ることができていない。

『迷子の守護者』はそれら迷子の全てを解決する話ではありません。ただ、『僕』が迷子に対して「必ず帰してあげる」と誓う話です。それは『僕』がやらなかったとしても世界が必ずそうするはずだ、という世を信じる話です。『僕』が黒服の男に迷子共々襲われた危機から脱するのは『僕』の力ではなく、『僕』の助けを聞いて手を引いてくれた大勢の人々です。

 

 ここに舞城王太郎ヒューマニズムを感じるなぁと思うのです。

 

 迷子という存在の救われなさ、救おうとする『僕』への世界の冷淡さを描くと同時に、助けに気づきさえすれば助けてくれるという世界への希望がある。たとえ『僕』でなかったとしても世界は迷子を助けてくれるはずだ、という祈りがある。

 この世の悲しい構造と、それへの抗い。

 そういう話が『迷子の守護者』だと思うのです。

 

 たった数千字の掌編でありながらそんな世界の一面を切り取って物語に仕立て上げる技量に惚れ惚れします。

 深夜百太郎は入口・出口の上下巻構成になっててどっちも好きなんですけど、こういうテーマを感じる方向の話だと出口がとてもいいんですよね。

 電子書籍版がないのが残念なところなのですが、サクッと読めてかつ舞城王太郎の要素がしっかりそれでも入っているので気になったら是非(まぁ既に深夜百太郎読んだ人じゃないとこの記事読まない気もするが……)

 

 気が向いたら他の好きな話についても書きます。ではでは。