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人生五里霧中

パッケージよりもずっと複雑な気がする。『アイの歌声を聴かせて』雑感

ainouta.jp

 

 アイの歌声を聴かせて、を見ました。

 タイムラインで評判が割と良かったのと、『イヴの時間』の吉浦監督ということで「じゃあ見ようかな」と。(吉浦監督はイヴの時間とパテマを複数回見たぐらいの範疇では好き。だけど熱心にチェックしているわけではないくらい。)

 

 先に結論から書いておくと「自分の中でどう受け止めたら良いかわからないことが多く、まだどういう作品だったのか理解できていない」です。

 

 宣伝などで描かれているような『AIと人間が関わる青春物語』といった構図で見るには後半でどうにも「んん?」と思ってしまうことや、「いやでもそこらへんも織り込み済みで作ってそうだな」と思うところが考えるほどに出てきていて、自分が制作陣の狙いを汲み取れていないような気がしていて、作品についての評価を下せない感覚があります。

 エンタメ青春ストーリーとしては「うーん、自分がターゲットじゃない」と感じるくらい直裁な展開や駆け足が多く、乗れない部分は多かったんですけどそれはそれでなんかまぁ好き……眩しいので……という個人的な感情もあるのですが疑問に思ったところから広げていくと表層部分の『エンタメ青春ストーリー』の部分もどこまで自覚的に作っているの?と混乱してきております。 

 

 以下、ネタバレあり。

 

・AIと人との関係、その権力差について

 

 『アイの歌声を聴かせて』ではシオンというAIが学校に試験運用として送られてきて、それから起こるドタバタで最終的にシオンはネットワークを経由して「逃がされる」んですが、その結果できるのがシオンによる(告白後押しのための)「人工衛星のハック」だったりと主人公であるサトミ達からするともちろん「良い話」なんですが、ちょっと引いてみると「いやこれ支配されているのでは?」とか「あくまでシオンの善意でなんとかハッピーエンドなだけでこの構造はかなりヤバいのでは?(完全に生殺与奪権がAIに握られているため」といったツッコミの視点が浮かんでくるんですが、どうにもそこについて自覚的に書かれている気がする。

 過去作『イヴの時間』を思い返すと、そもそも人間側が「道具でしかない」「思考・思想なんてない」と思っているアンドロイド側が実際のところ「めちゃくちゃ個人的な思想があるし、持ち主の人間についてあれこれ考えている」みたいなところがイヴの時間という店だけでは明らかになる(それ以外は一見して完全に他のアンドロイドと変わらない=他のただのアンドロイドも同じように思考・思想があるかもしれない)みたいな目線があったと思うんですよね。(アキコとかのエピソードとかサミィもだし)だからどちらかというとアンドロイドのことを「道具」とか「人間のような思考・思想なんてない」と思っている人間サイドの方がどちらかというと愚かな気がするんですよね。前提条件のレイヤーが既にアンドロイド側と違う。『イヴの時間』でもその上でアンドロイドと人間の共生の可能性が光として描かれていて、そこは『アイの歌声を聴かせて』でも通底しているところだなと。

 人間側が「決まったこと、プログラム通り動いているだけ」と考えそうな段階でシオンはずっと「サトミは幸せ?」という疑問について考え続けている。それをどうしたら実現できるか、ということを考え自己進化を続けている……という点でも『イヴの時間』とも重なる。

 だから、今作でのAI、シオンが人間をむしろ(そうしようと思えば)支配できる、よな状況になる、というのは普通に「ツッコミとしてありえる」と認識した上で描いている気がするんですよね。

 もっというならば「AIがその気になれば支配できるかもしれないよね、それでなんか問題でも?」みたいな目線がある気がしている。ロックすぎるだろ。

 どうにも題材が題材だけに『イヴの時間』を経由して考えてしまうのですが、実際には描かれていることとしては『アイの歌声を聴かせて』だけで成立はしている、気がするんですよね。

 AIと人間のヒューマンドラマ、というテーマに対してパッとイメージするステレオタイプなイメージとしては人間的な感情をAIが獲得して、「コレガ……ナミダ……」みたいになる展開が浮かぶんですが(いやそれはそれで好きだけどさ)そういう構造はあくまでも「人間がAIよりも上」みたいな目線がつきまとう。あくまでAIを生み出したのは人間である、的な。作中人物の「◯◯には心がある!」みたいなエクスキューズをやってそこら辺のマスクをしつつ。(でもそれも嫌いではない…)

 

『アイの歌声を聴かせて』はその辺の設定はやるはやるんですけど、後半シオンのルーツが明かされるあたりで、最初のきっかけこそ人間ですがそのきっかけを過去に作り出したトウマの知識も、現代で物語開始時にシオンという存在を生み出したはずのサトミの母の美津子の思惑すらも超えている。前半部分で『シオンは特別製なので』と物語上の意味づけとして行われていたミュージカル全校ハック(と私は見ていて認識していた)であったり、といった「人間ができるように設定していた」と認識していた部分が後半のシオン救出劇あたりで完全に「人間のコントロールを超えた権能(&シオン以外のAI達の意思」となっている。

 変すぎる〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 そんなことまでは見ている最中は考えられず、「うん?うん?」となりながら終盤の展開を見ていて、「いやこれ支配されているのでは?」とか考えつつ『イヴの時間』の視座で考えると、「そこは主題ではない」だろうという感覚的な手触りだけはあり、ずっと混乱していた。帰り道「んん??????」という混乱をずっと抱えていた。個人的なスタンスでいうと自分はそれだけ考えられた時点でまぁ映画代の元はとったな……自分の思考・価値観よりも上をいかれた『わからない』という刺激が欲しくてコンテンツに触れているところがあるので……

 

・AIを擬人化して親しみを持つ、ドリ系について

 

 作中でサンダーという柔道部の少年がいて、彼はシオンに惚れてしまい、最終的に「付き合ってくれ!」と告白をするんですよね。もう完全にLOVEの好きで駆動しており、作中人物はサンダーについて(コミカルな描写として)ヒキつつも本質的には否定していない、という風に描かれるんですが、これもただ「シオンは人間なみの情緒があるから人間とくっついてもオッケー、好きになる人がいてもおかしくないよね!」とい価値観で描かれているのか?と考えるとこれまた違う気がします。

 サンダーのようにAIに惚れる人間、というのが『AIに対して懐疑的な人々から否定的、批判的な目で見られる可能性』というのを認識したうえで作中のコミカルな範囲の描写に着地させている、そう思うのです。

 発想のもととしてはやっぱりまた『イヴの時間』なのですが、こちらでは『ドリ系』という作中用語でそういった人々が揶揄されている描写があります。アンドロイドに対して恋愛的な感情を抱く人間はおかしい、そういう目線が社会にある前提で、「人間もロボットも区別しない」というイヴの時間では人間とアンドロイドの恋愛関係に側からみると見えるコージとリナがいたりする。(まぁ実際はもっとねじくれてるんだが)それでそういう目線で人間とロボットの関係を描いた後に急に「そういう目線はないですよ〜」と舵を切れるのか?と思いました。

 んで、そこから色々作中描写を思い返すと初っ端でそういう描写がある。

 序盤の学校登校時、サトミが『ちくり姫』として煙たがられているのが明確にわかる描写の一つのエラーを起こして壁にぶつかり続けるAIを緊急停止させるシーン。

 このシーンでは一般生徒からすればAIは道具でしかなく、(ルンバのごとく)壁にドンドンぶつかっていればバカにするような対象でしかない。それは全員がそうしてバカにするなどの行為をするわけではないけど、それを止めるという行為はサトミのように『浮いた』存在になる人しかおそらくいない。実際、母の仕事で身近に感じているからこそ人間的な親しみを感じているサトミの行動は「優等生」としてのぶりっ子程度にしか認識されない。ここにイヴの時間のドリ系と近い構図がある。AIという非人間に対して人間を見出す構図。

 作中のごく一部の人間のみがAI、アンドロイドの人間性を発見し、交流する、という点は『イヴの時間』も『アイの歌を聴かせても』もだいぶ似た構図だなと。作中登場人物たちの世界では少なくともそこに対等な(気持ちの)関係性ができるが、外の世界はまだそうではない、みたいな目線。

 

『アイの歌声を聴かせて』が『イヴの時間』と違うな、と感じるのは途中で「大人と子供」という線引きがあることであったような気がします。

 

・大人と子供について

 シオンが拘束され、サトミたちも捕まり……という青春ものとしての盛り上がりが一気に奪われる展開が後半あるわけですが、その際に「大人と子供」みたいな対比が出てきます。やっぱり「変だな〜」と思うのは、作中で示された「大人」という像になるわけでもオルタナティブな大人像を提示するわけでもないんですよね。ただ、かなり作中描写はサトミたちに対して体重がかかっている感じで作中で示した対比でいうならば子供全肯定みたいな勢いがある。

 これ、なんというか「大人サイド」になった視聴者を明確に古い落としに来ている気がしていて、星間の西城とかが大人サイドなのは自我、知性のあるシオンについて全く認めないスタンスなんですよね。あくまでAIを製品として割り切っている。サトミ達と同じ目線でシオンについて思うことができない視聴者をすごい勢いで振り落としに行っている。上でつらつらと書いていた「権力差が〜」とか「ドリ系が〜」みたいな目線自体「お前らはもうついてこないでいいぞ!」ぐらいのノリで書いてないか?みたいなことを思ったりする。

 いや、自分はそういうスタンスの作品、反骨精神を感じてすごい好きなんですが。でもやっぱり表面的なポップな印象より変な作品な気がするんだよな〜〜〜〜〜〜〜

 

・まぁただなんともわかってない。

 

 と、いったことをだらだら書いたんですけど、「こうかな?ああかな?」と考えている段階で、その辺を「だからアイの歌声を聴かせて、ではこういうことを描こうとしてる」というスパッとした解釈に自分の中でまとめきれていないな〜と。

 AIの方が人間よりもメタ的な視座を得ているのだとすると、やや直裁に感じるサトミたちの青春ドタバタ要素すらAI関連の描写と比べて意図的に「わかりやすい」話にしているのでは?みたいなことも感じてしまう。また「何かに願いを委ねる(作中だとAIへの命令)行為が一人歩きをしていく=シンギュラリティ」というところから広げていくと、作者の意図を超えて物語自体の意味合いが受け手の中に発生する創作物全般の話としても読み解けない?とか思い出して、わからない。

 いや、シンギュラリティったAIと人間の共存の姿、みたいな話はわかるんだけどそれぞれのスタンスについて(自分が)直感的な理解ができる作りをしていないな〜と。

 ただ、まぁなんというか作り自体が私みたいな人間というよりもっとストレートにこの作品の気持ち良いポイントを気持ちよく受け取れる人、というのなら完全に自分が客層ではないのですが、その辺をもっと考えたくなる不思議な魅力はあるんだよな〜こういうこと考えさせてくれる作品自体好きなので。

 

 映画館へなのか、配信などなのかはわかりませんがもう一度ちょっと見たいなと考えてたり、こうしてブログにして考えをまとめているうちに思いました。多分もう一回何かしらで見ます。

 というか吉浦監督作品自体もう一度見直そう。wikiとか見た感じ見てない作品も普通にあるので、前提となる文脈自体押さえられてない気がする。

 そんな感じです。面白い感想あったら教えてください。

 

 

※11月7日追記

 

 いくつか「書き忘れたな〜」とか次見るのならそこら辺も意識してみたいな、という箇所があったので追記

 

・作中で一番怖い描写は美津子の荒れっぷり

 後半でシオンプロジェクトがダメになった時の美津子が酒を飲んで家で荒れているくだりが本当怖い。あそこだけ怖さが飛び抜けている。そしてそこのフォローが割と自然に流されているところが怖い。

 皿が壁にぶん投げられるシーンはかなり個人的な恐怖が想起されてだいぶ思考がフリーズしてしまったところがある。ちょっとした前半のAIをバカにする生徒たちのシーンといい、妙に悪意というか人間の嫌な面をすっと書くの上手いよな〜と思います。

 ただこういう側から見て、「やべ〜」となるいざこざって割とどの人間関係でもあるからサトミがOKならそれで問題ないのかな。

 とはいえ、自分は勝手にあれこれ連想してしまうので(これはさすがに作り手側の本意ではない文脈として自覚した上でだが)一見仲の良い親子だけど、実はサトミが知らず知らずのうちに母親の機嫌を損ねないように行動していた、とかだったらめちゃこわヒューマンドラマになるよな〜とか思った。そういう話はそういう話で好き。

 いや、ただあの描写は怖い。そしてそこに関して割とスッと流れて解決しているのがもっと怖い。にんげんはこわい。

 

・シオンの絶妙な異物感、そして歌という機能と噛み合った時の自然さ

 単純な脚本としてのシオンと周囲の人々の噛み合わなさ、というのもあるのですがシオンとサトミ達の会話シーンなどの絶妙な『なんか同じ目線の共有してなさ』が改めて考えるとめちゃくちゃうまかったのでは?感。

 脚本として破天荒な行動をするシオン、というのはもちろんあるのですがなんかアニメーションとしてそこら辺のシオンの『異物感』というのがあった気がするな〜と。『イヴの時間』では完全にイヴの時間の中と外でまったく個人の人格のあるサミィたちと、道具としてのアンドロイドたち、って感じで内と外の顔が全く違ったのですが、そのわかりやすい異質さとは違った不気味の谷的なもう一歩進んだ『異物感』が画面に出ていた気がします。

 ただ、その『異物感』が解消されるシーンというのがあって、それがシオンが自分の権能をフルに使って歌うミュージカルシーン。その瞬間、シオンは完全に世界と調和して溶け合っているんですよね。異物感がなく、シオンがしっかりと世界と溶け合っている。

 これはシオンに与えられた機能自体がシオンの認識する世界の要請のようなものに応えている形だからなのかな、と。日常生活での雑談などのコミュニケーション内ではシオンは異物だが、そこに歌という非日常が入ることでシオンは完全むしろ世界の中心になる。

 なんかそこのカチッとスイッチが切り替わる感じはめちゃくちゃよかったな〜と。

 

・『イヴの時間』との人間型のアンドロイドの存在の普及度合いの違い

 フォロワーさんのツイートで「確かにな〜」と思ったところがあり、『イヴの時間』と『アイの歌声を聴かせて』では人型のアンドロイド的な存在の普及が違うんですよね。

『アイの歌声を聴かせて』ではまた人型とはいえ顔とか人間を見出さないように道具の延長としての人型インターフェースで、『イヴの時間』では「たしかにこりゃ人間を見出しかねないよな」って外見をアンドロイドたちはしている。

 自分は作り手側の視点、という意味でこれまで書いてきたような読み方をあーでもないこーでもないと考えていたのですが、確かにそこら辺の設定も含めて考えた方がいいかもな〜と。

 

 とはいえ、こうして書いていたらだいぶ面白い作品だったな、と自分なりの軸が見つかってきた気がします。見終わった後は「この感情は面白かった、に類するものなのか?」とか自分の試聴後の感覚に自信が持てなかったんですが、少なくとも自分にとって好きだ〜という視点が見つかった感じです。

 とにかくもう一回どっかでみよう。そんな感じ。