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人生五里霧中

誰かを好きになることが自分への愛に返ってくるということ。僕ヤバKarte.84『僕は大丈夫』について

 

 

mangacross.jp

 僕ヤバ!!!!!!!!!!!!!!!!!(挨拶)

 

 はい、どうもこんにちはえのきです。

 

 マンガクロスで連載している『僕の心のヤバイやつ』こと僕ヤバの最新話、Karte.84『僕は大丈夫』が本日更新されました。

 毎度のことながら僕ヤバを読むと『陰キャ』というラベルに自分自身を退避させ、人との関わり自体少なかった市川が『陽キャ』とラベルを付け、(おそらく)憧れながらも交わるこおがなかった山田と徐々に距離が縮まり交流する様を見るたびに「こ、殺してくれ〜〜〜〜〜〜!」とか「許してくれ〜〜〜〜〜〜〜〜!」とか自宅とかTwitterで叫んでしまうような眩しさとコミュニケーションの繊細さ、人の心の揺れ動き、『気持ちの話』が展開されていく様に唸ってしまいます。

 

 しかし、今回は段違い。たまに僕ヤバはシンプルな歓喜とか、眩しさに焼かれる自分のようなオタクの悲鳴だけでなく、もっと人間関係であったり、大袈裟にいうと生きること自体の根本を掬い取るような回があります。

 今回のKarte.84『僕は大丈夫』はこれまでのある意味総決算のような回だったのかなと。

『人を好きになること。関わっていきたいと思うこと』について本質的な側面が描かれていたように思います。

 

・市川京太郎という存在の美点と欠点

 

 主人公の市川京太郎というキャラクターの魅力、美点として私が思うものとしては『献身』『利他的』といったことがキャッチーなポイントとしてあると思います。もちろん連載当初のフックとしては『陰キャ』といった要素がありましたが、キャラクターの骨子としてはどちらかというと自分のことよりも山田という想い人の気持ちを常に慮って行動する様かなと。

 序盤、シナリオ上特に印象的に描かれるのは市川が山田への好意を実感する一巻の終盤エピソードでしょう。

 体育の時間、バスケットボールがあたり鼻血が止まらなくなってしまった山田。市川はその様を見てほとんど衝動的に駆け出しますが、保健室のベッドの下でただ身を隠すことしか出来ない。怪我が原因で仕事にいけないことや、そんな風に原因を引き起こしてしまったことから泣く山田の様子に市川自身涙を流します。

 

 いやいやなんで僕が泣くんだ?

 ああ

 僕は山田が好きなんだ。

 一巻 Karte.14僕は何も出来ない

 

 ここであるのは山田の気持ちを市川なりに想像し、山田の悲しさや悔しさへの共感、共鳴です。

 そんな相手の気持ちになって考えることが出来ること。誰かの痛みに思いを馳せることが出来ること、そのために何かをしたいと思うこと、それが市川の美点だと思います。

 自分がどうしたいか、の前にまず山田にとってどうなのかを考える。

 そんな市川の人に気づかれにくい魅力は、山田が関わることで徐々に山田にも伝わります。市川が自分の利益に向けた打算ではなく、ただ山田に対して「なんとかしたい」といった行動は山田にとって(それが直接的に理解されることばかりではないけど)の魅力になり、山田もまた市川に好意を持ちます。

 

 ただ、その市川の長所は短所と裏表の関係です。

 市川は山田などの他者について強く想像を働かせられる、優先できる一方で自分に対しての価値の見積もりがとても低いです。

 山田との距離が縮まるにつれて、それは時に問題を引き起こします。

 

 三巻で、市川が山田に南条避けのために『利用された』と誤解してしまったエピソードや、四巻から五巻の市川が秋田に帰省した際の一連の骨折エピソードなどはその際たるものでしょう。

 山田にとっては、市川は既にとても大切な存在で市川が思うようにどうでも良い存在では既にないのに、市川はまだ山田にとって自分の重要性を確信できていない。

自分とのコミュニケーションが原因で市川を傷つけてしまうことは、とても重大で、罪悪感を持ってしまうインパクトのある出来事ですがそこに対して市川はそれまで山田に対して抱くことができていた想像力が機能していません。

 

 三巻での誤解は市川の山田と近づきたい、もっと親しくなりたいという『本当は欲しくたまらないのにどうせ手に入らないから嫌いになる理由が欲しかった』という自分の気持ち、欲望を自覚する形で山田との関係修復に至りますが、この時点では根本的な山田に対してのアンサーにはなっていませんでした。

 その後、骨折エピソードでの秋田けんたろう(秋田犬キーホルダー)を見つけてからの一連の流れで再びそこについては触れられますし、そこで改めて『嫌われるのが怖い』という感情が山田と自分は同じもの=似ているということを見出します。

 

 それぞれのエピソードの問題の根本は一つ一つの誤解や失敗ではなく、そこに対しての市川自身の心、という風に意味づけがされているのが僕ヤバのコミュニケーションを描いた作品として白眉なところであるように思えます。

 単純な行き違い、失敗についての埋め合わせをしてOKではなく、市川が山田への好意を自覚し、近づこうとするたびに市川は自分の気持ちの根本と向き合います。

 

・自分がどうしたいか、避けられない、どうしたって関わることになる『自分』

 

 五巻の最後、市川はおねえと話している時に『自分がどうしたいか』をこぼします。

 

 僕は山田とつきあいたい

 五巻 Karte.71 僕は山田と

 

 市川にとってこれを自分で認める、というところまでいくのは大変な困難だったと思います。

『僕は山田を好き』ということと『僕は山田とつきあいたい』というのは似ているようで違うことです。前者は市川が畢竟、山田と関わらなかったとしても「好きだなぁ」と思えば完結しますが後者はそうではありません。

 どうしたってそれには『自分』が山田と関わります。

 それはそれまで市川が願い、実際に行動し続けてきた「山田が幸せでいてほしい」といった類の望みとは根本から異なります。

 もちろん、読者目線ではそれ自体が今現在の山田の願いである、ということは理解しつつも市川にとってはそうではありません。

 (それ自体は市川も徐々に違うとわかっていましたが)山田に他の好きな人がいる可能性や、もし市川が好きだったとしてもおねえの言うように「心だって変わる」ことが起き好きな人が市川でなくなる可能性だってあるわけです。*1

 

 だから『つきあいたい』というのはそれまでの市川の利他的な行動指針のような『山田のため』ではありません。

「自分がどうしたいかだよ」というおねえの言葉の通り、『市川がどうしたいか』すなわち『市川(自分)のため』の気持ち、願いです。

 

 僕ヤバの面白さの一つがここにあると思います。市川と山田が両思いになったら付き合えるのだとしたら、もう僕ヤバは二巻で完結しています。

 それでもそうならなかったのは、その気持ちをどう形にしていくか、どう向き合っていくか、を描いていたからに他ならないと思います。

 

・山田に向き合える自分になるということ、胸を張れる自分でいるということ

 

 山田からの好意への確信は市川の中で現在の最新話よりもだいぶ前に起こります。ですが、市川が向き合っているのはそこから更に先。自分が山田という存在と付き合っていいのかという葛藤です。

 当初、市川にとって山田は『陽キャ』で『クラスの人気者』で『殺したいような人』でした。それらのラベルは山田と関わるうちに市川の中で消えていきますが、それでも市川にとって山田は尊敬する人だったと思います。

 山田はモデルで、モデルだからではなく、その仕事に対して熱心に取り組んでいて仕事を全力で楽しんでいます。自分にとって大切なことを、努力していることだということを認めています。自分に対しての誇り、自信を持っています。*2

 

 市川はそんな山田と比較して、自分に対して自信がありません。中学校受験失敗から、凶悪事件系の書籍への興味から新しい環境のクラスメイトたちに引かれたことなど、色々なことをうまく出来なかったという気持ちを払拭しきれていません。

 

 そこに対して市川を揺れ動かす存在があります。

 一つは南条(ナンパイ)。

 一つはもう一人の市川であるイマジナリー京太郎。

 

 南条は一巻から登場していましたが、市川にとって明確な恋敵であり、山田に好意を持つ存在です。

 初めは市川にとっての第一印象同様ナンパな人として描かれていましたが、山田のイメージが変わっていくのと同様に、彼もまた市川の一面的なイメージだけで語れるわけではない、山田に対しての(市川とまた性質は違えど)単純な遊びではない好意を持っていることが明らかになっていきます。

 南条もまた市川とは違えど、山田に対してアプローチをしていきます。

 それは市川にとって自分自身の山田への献身だけではない『好意』を自覚することだとも感じます。

 (メタ的にはそもそも山田が好きなのは市川なのですが)市川が自分自身をどうでもよく、山田が幸せであればいい、というのならば極論、山田と付き合うのは市川でなくてもいいはずです。市川でない誰かが山田と付き合って、山田が楽しく過ごすという可能性自体はどこまでいっても存在します。

 

 だから、市川が南条に何かしらの対抗心や、山田への独占欲を感じる時、それは「僕は山田とつきあいたい」という気持ちと直面することになります。

 山田にただ幸せになってほしい、だけではなくてそれによって自分もまた幸せになりたいと思う気持ち、それが市川の心の動きでしょう。

 

 そんな市川を応援する、鼓舞する存在がイマジナリー京太郎です。

 彼は市川のもう一つの心自身、まぁ要するに市川の自問自答の擬人化ですが、作中で山田から借りたマンガ『君オク』の濁川君ととても似ています。それは市川の理想の自分といっていい姿かもしれません。

「こうであったら山田と釣り合いが取れる、山田に恥をかかせることなく、気兼ねなく付き合える」という理想の姿だと思います。

 実際に、市川は大人のなりかけで、声変わりもしていていつかイマジナリー京太郎のような人になれるかもしれません。中学二年生で成長期ですから。

 

 でも、そんな風に市川が成長するまで時間は待ってくれません。

 市川同様に待ってくれない時間=卒業が迫って南条もまた本気を出して行動を始めます。そして市川自身の心もそんな悠長ではありません。

 だから市川は(実際には山田の気持ちの問題なので、問題ないかもしれないけど)そこに葛藤し、イマジナリー京太郎とたびたび対話をすることになります。

 

 市川は市川なりに山田に対して、自分が付き合いたいという気持ちを自覚したうえで行動していきます。映画館に行ったり、山田の仕事現場に行ったりします。

 そうして、最新話の山場である卒業式での在校生代表の祝辞を言うことになります。

 

 市川がなぜ祝辞を言うことを先生に頼まれて引き受けたのか、というのは山田に胸を張れる自分を見せたいから。

市川の「いいなー」と好きなポイントとして、山田の仕事の規模に見合う自分になろうとするのではなく、「山田のように胸を張れる自分」になろうとしているところだなと思います。もちろん、色々考えてその人なりに「これぐらいデカイ何かを成し遂げないとダメだ」と決意するのはそれはそれで大切なことですが、市川の場合、山田が「モデルだから」とか「クラスのカースト上位だから」とかで好きなわけでない、ということが積み重ねられたうえでの市川の「山田と釣り合っていない気がする自分」なので自分に胸を張れる、という『気持ちの問題』として向き合うのがとても丁寧だなと。

 

・自分自身との融和、手を伸ばす自分を好きだと思うこと

 

 さて、ようやく今回のKarte.84『僕は大丈夫』についてです。

卒業式当日、直前で祝辞の原稿を忘れてしまった市川。それは側から見れば『ちょっとしたトラブル』程度の大したことではないかもしれないけれど、市川にとってはやはり大問題です。

 市川にとって祝辞、それ自体は先生に頼まれたことで(南条とはある意味縁がありまくりですが)卒業生たちには特別思い入れはありません。市川にとってはその場で自分自身全力を出して、胸を張ってやってみせる、ということが今の、これからの自分にとって重要だと感じていることです。

それは過去に挫折して失っていた自分に対しての自信を取り戻すための一つの節目だからです。

 

 だからこそ、そこで想定外の事態で上手くできない可能性は市川にとって大きなプレッシャーになります。自分で決めた再起(傍目から見たらもう十分すごい歩いてるんですがね市川)の一歩が失敗に終わる可能性だからです。信じようとした未来が「やっぱりダメ」と突きつけられる可能性だからです。

 

 それでも、市川が動揺しながらも異変に気づいた山田に思うのは助けを求めることではありません。

 

今は“頑張れ”って言うな…

 

 これは純粋にプレッシャーではち切れそうなのもあると思いますが、それ以上に『山田に応援されたから頑張る自分』ではない自分にしたいのかな、と思いました。山田にそう望まれたから頑張る、ではなくて自分でそう決めたから頑張る、という風になりたい、そんな想いなんじゃないかと。

 市川が身構えるようにして聞いた言葉は「頑張れ」ではありませんでした。

 

大丈夫

 

 市川にとって予想外、もしくは気づいていても認識しないようにしていたのはとっくに山田にとって、市川はそこで挫けるような人ではないという信頼があったことでしょう。

 市川にとって「あの頃の僕はもういない」と思っていた輝かしい小学生時代は過去ですが、それでも今の市川には自分でも否定できないくらい積み重ねてきたものがありました。

 山田、山田と決定的な関係の危うさを修復した時の秋田けんたろうのキーホルダー、自分を応援してくれる姉や先生、見守ってくれるクラスメイトたち。

 もう十分すぎるほどに、市川は色々なものを積み上げている。

 

 それでも、祝辞直前、最後に市川に語りかけるのは山田たちではありません。

 イマジナリー市川、市川にとっての理想の自分、自分自身が市川へ語りかけます。

 市川のことを誰よりも好きなのは他の誰でもない自分だと。

 山田と付き合いたくて、それでも自分に自信を持てなくて、自分を好きになれなくて、理想には程遠くて、それでも理想に近づこうと一歩踏み出す『今の至らない自分』を誰よりも応援し、好きだと言うのはそんな『未来の理想の自分』なのです。

なんと言う自分自身との融和……ウオー泣いてしまう。読み返してまた泣いた。

 市川のすごいのは、「ダメな自分を受け入れる」というある種の妥協としての折り合いではなく*3「理想に手を伸ばしつつもまだ届かない自分」というとても難しいバランスの変化しつつある自分自身を肯定することです。

今振り返るとこそういう市川の変化も含めて自己肯定するために声変わりのエピソードなんかも入れてたんですねぇ……と構成の上手さに唸ってしまう。

 

 

enonoki.hatenablog.com

 

 

 そんな一連の心が、僕ヤバで描かれる誰かを好きになる、誰かに好きになってほしいと思う、そうして行動する、ということの極めて本質的な心の在り方なのかなと。

 誰かを、何かを深く愛する(もう愛って言っていいだろ!?!?!?!?)といういうことが自分自身もまた愛することになる、という話なのかなと。

 名作……まだ完結していないけどもう自分の中では名作……僕ヤバは名作……

 

 他にもおねえが間に合わなかった結果、市川の祝辞を見ることになったのもある意味で市川の『卒業式』だったということなのかなと。市川が立ち直って、もう「大丈夫」だということをおねえにもまた示すことが出来たのかな、と思いました。いやそれでも原稿届けに来てくれるおねえ、マジ良い姉。本当にいい姉……

 

 単行本でじっくりこれまでの話読み返してまたしっかり考えたい、そんなエピソードでした。

 というかもう市川の境地、私よりもずっと大人……いや本当にすごい……まぶしい……

 

 そんな感じです。今回は特にすごい回でした。

 

 

 

 ギョエ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!死んでしまう!!!!!!!!!!!!!!!!!!助けて!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!まて!!!!!!次回!!!!!!!!!!!!!!!!待ちます!!!!!!!!!!!!!!!ギャ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

*1:いや、カプ厨としての私は「そんなわけないだろ!!!!!!!!!」って炭治郎ばりに大絶叫しだすのですが……

*2:山田は山田で出来ないことがたくさんあり、それについても描かれているですが、少なくもモデル活動について、という意味で

*3:いや人生のどこかでそういうのも必要ですが、市川のタイミングではない