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人生五里霧中

通底する『正しさ』への相対、人間賛歌、そしてジョジョから連なる『運命』への別解。ドラマ版『岸辺露伴は動かない』

 

 

 2020年末に大好評だったNHKスペシャルドラマ『岸辺露伴は動かない』が2021年、今年も新エピソードをやってくれるそうです。嬉しい!

 

www.nhk.or.jp

 

 ……と、まぁこのニュースが報じられたこと自体すでに一ヶ月ほど前なのですが。

今回はそれに託けてドラマ版『岸辺露伴は動かない』についてあれこれ書こうかなと。

 だいぶ長いです。

 

・大満足のクオリティ、そして通底するテーマ

 

 まぁ散々語られている話なのですがこのドラマ、クオリティが非常(ディモールト)〜〜〜〜〜〜〜に良いッ!

単純にただ原作漫画である『岸辺露伴は動かない』をなぞっただけ、などではな全くなく、主演の岸辺露伴役の高橋一生のビジュアル、一目でわかる「こ、これは奇妙な人物〜〜〜〜〜〜!」となる演技、一つ一つの台詞回しなど徹頭徹尾、荒木飛呂彦先生の味を解釈、再構成し一つの実写ドラマとして作り上げているところが凄いッ!

 

 あんまりジョジョ的な文体はテンションが持たないのでここら辺でやめるのですがほぼ助手ポジションに泉京香を持ってくるのも名采配。原作では『富豪村』の単発キャラでありましたが、『いかにも奇妙な変人』である露伴先生に対して『全くそれに動じない奇妙な一般人』である泉京香をぶつけることでここまでしっくりくるとは……!というしっくり具合。

 

 露伴先生、マジで変人だし、めちゃくちゃ自分のポリシーに拘る自己中心的な人ではあるのはもうずっとそうなんですけど、『漫画のためなら徹底的にリアリティに拘る』という信念故にそこを逆手に、というか揚げ足を泉京香に取られたり、全く露伴先生の塩対応に動じない泉京香にペース掻き乱されたりするから稀にパワーバランスが露伴先生だけじゃなくて泉京香に傾くあたりがコンビ物としても面白い。

 

 褒め出すとキリがないくらい中々ない『良実写化』といった内容で、年末の続編もたまらなく楽しみなのですが、それはそれとして1〜3話についても今のうち(というかもう遅すぎるぐらいだ)にテーマ的な解釈を書き残しておきたいなと。

 

 今作、『岸辺露伴は動かない』の実写ドラマ化、ということもあり原作(およびノベライズ)からのチョイスでの物語で、連作にするための再構成などはあれど、露伴先生が直面する『奇妙』な出来事自体は原作準拠なんですよね。

富豪村では重すぎる代償を賭けたマナー勝負になるし、くしゃがらでは決して探ってはいけない禁止用語に惑わされるし、D.N.Aでは単純な記録や記憶を超えた愛が描かれる。

 

 それぞれの話はもともとインパクトに残る話だし、「面白いチョイスだな〜」と感じて、実際面白いのですが、見ているうちにふと思うことがありました。

「もしかして、このドラマ、三話セットで全部テーマを共通させている?そのためにこれらの話をチョイスしているんじゃあないのか?」

 いや、もちろん原作が荒木飛呂彦先生であるため根底には『ジョジョ』から連なる人間賛歌といったものはあるのですが、そこをドラマ版の全三話構成にするにあたり、相当しっかりテーマ設定をしてやっているな、と感じたんですよね。

 

 ドラマ版『岸辺露伴は動かない』1stシーズン全三話を通底するテーマ、それはある種の理不尽、かつ一面的な『正しさ』との対峙なのではないかと私は思いました。

 

 『正しさ』ってなんでしょう。昨今ポリティカルコレクトネスであったり、インターネットなどでの議論でも話題になるテーマです。ただ、SNSカジュアルにこそ話されますが、「何を持って正しいとするか」というのはそう簡単に答えの出たり、気持ちの良い回答が用意されている設問などではないような気が個人的にはしています。

 

 ドラマ版『岸辺露伴は動かない』はそんな『正しさ』についてそれぞれの奇妙な事件と岸辺露伴や周辺の人々の動きを通じて、問いを投げかけつつ、人々がそんな中でも強く生きるということを模索している作品であるように思えるのです。

 

 第一話の『富豪村』についてまずは書いていきます。

 

・第一話『富豪村』マナーという『正しさ』では取りこぼしてしまうもの

 

 所有した者は例外なく成功を納めるとされる豪邸が並ぶ富豪村ですが、家を買う条件は不明。露伴先生の担当となった泉京香はそこで家を買おうと露伴と共に、富豪村を訪れるのですがそこで起こるのは『マナーを守れるかどうか』という試験でした。

 

「マナーは正しいか正しくないかのどちらかです」

 

と出迎えの少年(一究)は言います。

 

 マナーを違反するために、違反した者は一つ大切なものを失います。

 その結果、泉京香のペットは調子を崩し、恋人の太郎はペットを病院へ運ぶ途中に車との事故に遭い一度は命を落としてしまいます。

 

 そこにあるのは超自然的な存在である山の神々による圧倒的なまでの『正しさ』です。その前では個人の思想であったり、気持ちのようなものが立ち入る隙間はありません。

ただ、この『正しさ』の前で耐えられる人はそう多くありません。泉京香は実際にマナーを守ることを意識していても失敗してしまいますし、露伴も一度は失敗し、片手を使えなくなるほどのギリギリの戦いを強いられます。

 

 この一話、改めて導入と締め方を見ると練りに練られていると唸ります。

 ドラマ冒頭は露伴の家に侵入する泥棒が現れます。泥棒というのは『正しくない』存在です。もしも富豪村に冒頭の強盗が立ち入っていたら、そこで展開されるのは『戦い』ですらないでしょう。おそらく、露伴の『ギフト』*1ヘブンズ・ドアーに訳もわからず退治された以上の速度で様々なものを奪われていたでしょう。

 ですが、そんな存在も神ではない、漫画家の露伴の前では『ただの泥棒』ではありません。 

 露伴は自分の作品のリアリティのために泥棒の心理を知るために、彼らを誘き寄せたと語りますが、泥棒がいった「(露伴の漫画、ピンクダークの少年を)好きだった」という言葉に尋常じゃなく食いつきます。

 なぜ、『好きな漫画』ではなく『好きだった漫画』なのか。露伴の前ではそこにいるのは『ただの泥棒』ではありません、自分のかつての『読者』です。

 第一話の最後、刑務所で服役する泥棒に差し入れられるのはピンクダークの少年です。

 露伴にとっては泥棒ですら、かけがえのない唯一敬意を払うべき存在『読者』であることには違いがありません。

 

 もしも富豪村の試験、『マナーという正しさ』で規定していれば取りこぼしてしまうような存在への光を当てる形で第一話は終わります。

 

「でも、『普通』の泥棒なんですよね?」

「『普通』の泥棒。そんなものは存在しない。泥棒になった背景がある。例えば受験前に大好きだった漫画を取り上げられた子供が結局落第して人生からも落ちて泥棒になる」

 

 露伴は誰にでも優しくしたり弱者を無条件に救うような善人ではありませんが、自らの漫画のリアリティのために人を単純化した一面的な存在としては見ません。『普通』の泥棒なんて実際に存在しません。百の泥棒がいたのなら、百の背景が存在するはずです。露伴が見ていて、取材したいと考えているのはそんなリアリティで、だからこそ、一面的に何かを、誰かをジャッジ出来る『マナーという正しさ』と対峙したのが一話だったのではないかなと。

 

 

 第二話『くしゃがら』もまた示唆的な内容であるように感じます。

 

・第二話『くしゃがら』変わり続ける正しさの尺度である『禁止用語』

 

 露伴と同じく漫画家の志士十五は禁止用語である『くしゃがら』という単語が「なぜ禁止なのか?」ということがひっかかってしまったが故に、それに取り憑かれたように調べ、発狂してしまいます。

 最終的に十五は露伴ヘブンズ・ドアーによって『一ヶ月の記憶』ごと『くしゃがら』という単語を忘れさせることで間一髪で助かりますが、『くしゃがら』という言葉は露伴曰く『この世の禁止用語』であり、常人の枠組みを超えた能力、ギフトであるヘブンズ・ドアーですら書き込むことの出来ない言葉です。

 十五が陥った「なぜ禁止なのか知りたい」といった感情は誰にでもある感情として共感が出来る物である気がします。そしてその感情はかなり危険と隣り合わせだな、と思いました。

 

 近年の表現規制関連の話題ではその規制の是非について議論が発生しますし、過去の規制については「どうしてこんな規制したの?」なんて声が上がったりします。『岸辺露伴は動かない』の源流にあたる『ジョジョ』であっても「どうしてこんな修正があった?」みたいなセリフの修正があります。*2

 それらはドラマの作中で露伴が言っているように理にかなっている、納得のできるものである場合もあれば、到底納得の出来ないような理にかなっていないように感じられる修正、規制も存在するわけです。

 それでも禁止用語、というのはこれまた『正しさ』の尺度として機能します。様々な禁止用語が現在でもありますが「それぞれの言葉が禁止用語になった理由」までいくと把握している人は稀でしょう。

 そして、その言葉が「今でも本当に禁止に足る理由なのか?」という風に考える人は残念ながら更に少ないでしょう。*3

 ですが、時間経過と共に、『正しさ』によって規定されたはずの禁止用語というのは「禁止用語だから禁止だ」という『正しさ』の尺度そのものになります。

 

 この『くしゃがら』という言葉は、そんな揺れ動く『正しさ』の曖昧さの一つの怖さとしての側面なのではないかと思いました。

「なぜこれがダメなのか?」というのは「何が正しいのか?」という問いと地続きですし、『くしゃがら』といった理由なき『禁止用語』を追い求めるというのは、「何が絶対的な正しさを保証してくれるのか?」という普遍的な『正しさ』の尺度のメタファーであるように思えます。

 

 ですが、時代が移り変わるうちに何が『正しい』のかは変わります。例えば奴隷制度があった国、時代は(もちろん疑問に思う人はいても)その在り方をその時代、場所に生きる大多数は正しいと感じていたのでしょうし、ファッション・ライフスタイルであってもその時々の『正解』はやはり違います。

 ある一面的な『正しさ』を盲信すればそれこそ第一話のマナーのように何かを切り捨てることにもなりますし、第一話で露伴が突きつけたように「マナー違反を指摘することが一番マナー違反」のような別解が現れることもあります。

 

 そんな尺度は絶対的なものではなく、第二話でずっと軸であった『くしゃがら』という言葉ですら、第二話ラストシーンで覆されます。

 

おことわり

視聴者の皆様の安全のため、番組内で使用した『くしゃがら』は、実際の単語とは違うものを使っております。

NHK

 

『くしゃがらという正しさの絶対的な尺度となるような禁止用語自体』ですら実際の単語と違う、形を変えてしまう『絶対』ではない。という皮肉が見出せないでしょうか?

 

・第三話『D.N.A』愛という黄金の精神、『正しさ』に対しての相対、人間賛歌について

 

 さて、第一話、第二話と露伴や泉京香のキャラクターもあってバッドエンド感はもちろんないのですがこのような解釈で見ていった時にそれぞれの話で示されたある種の暴力性すら伴った『正しさ』に打ち勝っていく話ではない、ということが見えてくる気がします。

 それでもそんな世界に生きる人々に対しての希望というのを端的に示したのが第三話『D.N.A』なのではないかと思います。

 第三話の『D.N.A』はそれまでの話と違い、明確な脅威や危機が迫る話ではありません。

 ただ、ある種の『奇妙さ』を抱えた人々、家族の物語です。

 

 インテリアコーディネーターの片平真依は娘の真央の瞳の色が違うことや、言葉を逆さまに話すこと、過去にあった事故のように事故が多く感じることなどに恐怖を感じています。それは真依にとっては『奇妙』なことであり、出会った露伴に対して露伴の『ギフト』によって治すことを願います。

 ただ、それに対して真央を自らの能力、ヘブンズ・ドアーで見た露伴は冷ややかです。

 真央は至って『普通』で、瞳の色が違うことなどは『個性』だ、といいます。

 

 ただ、同時にそれは身近に真央がいる真依にとっては簡単には受け入れられる言葉ではありません。多様性といったメッセージは近年様々な媒体で発信されていますし、それによって世界が変わっている様子もありますが、そうであっても異分子を弾こうとする動きというのは依然として世界にはあります。

 

「こんなの普通じゃない」

「普通。よくわからないな。普通の基準は?どこからどこまでが普通だ。目の色が違って、言葉は逆さま、潜って暮らすのが好き。それがあなたの子だ。どこにも問題はない」

 

 露伴の言う『普通』は真央、その人にとって偽ることのない本来の性質であることを示していますが、真依の言う『普通』とは違います。

 真依の言う『普通』それは他者との差異がない、平均化された存在としての『普通』です。

 大なり小なり、社会からズレた側面を持たない人などいないと思います。ただ、それを、自らのズレたところをチューニング(社会に虐待されて、といってもいいかもしれない)して『普通』という枠に入ります。その『正しさの尺度』が場合によっては『マナー』であったり『禁止用語』に姿を変えるわけです。

 そして、その尺度は時に理不尽で、容赦無くそこからはみ出した『正しくない』『普通ではない』存在を排斥し、その『正しさの尺度』すら絶対ではありません。

 

 一話、二話を通じて、(もしかしたらそれ以外の露伴の人生の中で)その現実、世界を見てきた露伴は既にそれを認識しています。

 

「このままじゃ、真央はきっといじめられます」

「そうかもしれないな。それが現実というものだ」

 

 でも、露伴はそんな『世界』自体には干渉しません。タイトルが『岸辺露伴は動かない』であるようにそのような世界の理不尽さそのものに露伴が干渉する物語ではありません。

 

 真央はその後、自らを透明にし(原作準拠でいえば、保護色ですが)姿を決して家から逃げ出してしまいます。

 露伴がその後、真依に指摘することは真央の『奇妙さ』についてではありませんでした。

 

「一つ言えることがある。真央ちゃんをこうさせているのは、あなただ。真央ちゃんを常に包んでいたのはおもちゃやショールじゃない。真央ちゃんを隠したいという母親の無意識だ。あなたが、真央ちゃんの心を包み込んでいるんだ」

「私、あの子を守っているつもりで……

 

 真依が真に恐れているのは真央が、彼女自身の『個性』によって真央が『普通』に生きていけないのではないかということです。

 それが、守ろうとする意志を超えて真央を隠そうという方向に働いてしまっています。(あえてスタンドの概念を頭から外して、この描写の意味を捉えようとすると真依の心自体が真央を透明にしているのかもしれません。)

 

 では、そういう人々はどうやって生きていけばいいのでしょう?

 どうやって、その困難=世界の理不尽さ=『正しくない』『普通ではない』存在を排除する理不尽さ、が存在するであろう世界と対峙すればいいのでしょう。

 

 作中で、真依が悩む真央についての懸念を払拭するのは露伴でも、露伴の『ギフト』でもありませんでした。

 過去に真央がやたらと接触を試みたのはそれまで泉京香の恋人として登場していた太郎です。三話で語られるのは、太郎が過去に事故にあった時に臓器提供を受けたことであり、そのタイミングは真依がかつて事故にあって、夫を、真央の父親を亡くしたタイミングでした。

 太郎もまた、事故から世界に対しての繋がり方を喪失してしまった人です。かつて活躍していた写真家としての意欲が失われてしまっていて、かつてのように世界との繋がりは無くなっていました。

 

 しかし、真央と出会います。太郎は真央と出会うことで、真央は太郎と出会うことでそれまで身近にいた泉京香や真依の見ていなかった一面を出せるようになります。

 

「太郎くんが、あんなに笑っているとこ初めて見た……」

「真央も。あの子、あんな風に外で……信じられない……」

 

 それは真依が想像も出来なかった『外の世界』で元気に生きる真央の姿です。また、泉京香の前では出なかったポジティブな感情を示す太郎の姿です。

 それは『死』という絶対的な運命を超克した『愛』の形です。

 

 真依の夫は確かに死にましたが、そこに確かにあった愛は太郎への臓器移植を通じ、そこに存在し続け、太郎と真央をで合わせます。真央は生まれる前に失った愛を、自らの感覚によって探り当て再び出会います。

 

 真依はそんな真央と太郎が出会うことで、世界で生き抜けないと恐怖していた『個性』を抱えた真央が外の世界でも力強く生きる様、希望を見ることができます。

 

 確かに世界には理不尽で一方的な『正しさ』は存在していて、それは時に『正しくない』無辜の人々に牙を剥くかもしれない。

 それでも、人々の愛は消えず『正しさ』という理不尽なものがある世界でも強く生きていくことができる、それがDNAで描かれる一つのアンサー、『正しさ』に相対できる人々の希望、ジョジョシリーズから連なる人間賛歌なのではないでしょうか?

 

 

 

露伴の役割、『読む』ということ、『運命』の否定について

 

 さて、そんな人々の『正しさ』と相対する姿勢が描かれた『D.N.A』ですが、同時にこの三話はそれだけではありません。

『運命』というもの、そしてこの物語において岸辺露伴という主人公がどういう存在であるかを示した回だと思います。

 

「ゾロ目だ」

「ですね。さっきもでましたよ。二回連続ってすごくないですか!?すごい奇跡!」

「おいおい奇跡のハードル低すぎるだろ。これは千回に一回くらいの確率だ」

「千回に一回なら奇跡じゃないですか。イカサマしてません?」

「するか。起きるはずがないから奇跡というんだろ」

「ですね」

「じゃあ起きた瞬間にそれは奇跡じゃない」

 

 三話冒頭、露伴は確率で起きることを『奇跡』と定義していません。露伴にとって『起きたこと』は『起きたこと』で、『あり得ること』としています。それは露伴自身の『ギフト』や作中で描かれた事件を体験していることによる世界の『奇妙さ』を実感しているからでしょう。

 

 ですが、真依は露伴のようには考えられません。

 自分の両親が事故で亡くなったこと、自分も事故にあったこと、身近で事故が多いことから真央もまた同じ『運命』にあるのではないか、という懸念が払拭出来ません。

 

「原因は遺伝だと思います。実は私の両親は事故で亡くなってるんです」

 

「こんなの偶然で片付けられないですよね。昔なら呪いとか言うんでしょうけど。そんなんじゃなくて、こういう運命みたいなものも親から子に遺伝するんじゃないでしょうか?見た目や性格みたいに」

 

 運命、遺伝という単語、要素は『岸辺露伴は動かない』のスピンオフ元である『ジョジョの奇妙な冒険』においても重要な意味を持ちます。ジョジョ』は運命に対してどのように対峙するかという物語であると同時に、運命に翻弄される物語でもあります。

 

 特にジョジョ六部においてその『運命』という要素はマイナスな要素として描かれているように思えます。承太郎が守るために距離を置いていた徐倫DIOとの宿命に関連したプッチ神父の策略によって結局戦いに巻き込まれてしまいますし、メイドインヘブンとの戦いに置いて承太郎は愛するものへの自己犠牲の精神というジョースター家に共通する性質が原因で敗北、結果エンポリオ以外全滅してしまいます。

 

 その後の8部でも『家族、血統の呪い』といった要素が取り上げられているあたり、特に5部終盤(ローリングストーン(ズ))あたりから現在の『ジョジョ』シリーズにおいて「運命という概念のマイナス要素」は欠かせない観点な気がします。

 

 『運命』というものは、それまでの『山の神々』や『くしゃがら』といった存在の中で最も強大で、『奇妙な』人々を翻弄する存在なのです。

 

 ジョジョ本編においてどのようにその運命論が扱われているか、というのはまた別の話としてドラマ版『岸辺露伴は動かない』の中でもまた「運命に対してどうすることが出来るのか」ということが描かれているように感じます。

 

 物語の終盤、真央と太郎が出会い、それに真依が合流する形でこれからの真央が『普通に生きていける未来』が真依が見ることが出来た時でした。

 真央が不意に走り出します。当人は気づいていないところですが、その時真央が通過しようとした道路には車が迫ってきていました。

 この時、真依に脳裏を過ったのは過去の事故の再演でしょう。

 太郎は真央を助けようと駆け出しますが、それを救ったのは太郎ではなく、露伴でした。

 

「全く。僕が鍛えている漫画家でよかったよ」

 

 真央を抱えて、なんでもないように事故の危険から救出します。

 露伴はその後、三人(プラス泉京香)を本にしてそれぞれの関係を『読み』ますが、運命についてはそのタイミングでは全く気に求めていない様子でした。

 

 思うに、ここでこの事故を未然に防ぐことが出来たのは(単純な場所の位置関係の話ではなく、文脈として)露伴だけなのではないかと思います。

 

 別件でついつい見落としてしまいますが、太郎もまた交通事故の『運命』にとらわれていた節があります。

 元々過去の事故で太郎は『一度死んで』おり、臓器移植の結果第二の生を得て生きている人間でした。ですが、第一話の『マナー』の代償でも彼に降りかかるのもまた『交通事故』という不運です。(結果的には無事だった、となっていますがあれは露伴がマナー勝負で勝ったから因果が逆転して『無事だった』ことになったというニュアンスでしょう)

 事故の前の太郎自身の『運命』だったのか、臓器移植を受けてからの『運命』だったのかはわかりませんが、太郎もまた事故に遭遇するという運命に絡め取られていた、絡め取られつつある人であったように思えます。

 

 真依、真央、太郎の三人は立ち直ること、『普通』という暴力的な『正しさ』に対して向き合うこと、それには露伴の助けは借りません。ただ、自分たちに存在していた愛によって出会い、関係を再構築し、日常へと向かっていきます。

 

 ここに露伴がこの物語の主人公という意味、役割があるように思えます。

 

 露伴はそこにいる人々が勇気を出して生きようとすること、人間賛歌自体には関わりません。タイトルにある通り、『岸辺露伴は動かない

泉京香が幸福に近づこうとするための富豪村へ行こうとする人生の姿勢には(巻き込まれることには愚痴りますが)特に関与しませんし、志士十五が漫画を書くために『リアリティ』に拘る視点、姿勢のようなもの自体は否定しません。真央の人からは『奇妙』に映るかもしれない『普通』も変えようとはしません。

 

 生きることそれ自体には、生きる人々自身が勇気を出し、歩み寄ることで各々が持つ畏れのようなものに対峙していきます。

 ですが、勇気であったり、個々人の魅力ではどうにもならない理不尽さが多く存在しています。

 『山の神々』『くしゃがら』『事故に遭う運命』そんな多くの『奇妙』な理不尽さが。

 そんなこの世の正道のようなものを超えて人々に襲いかかる『奇妙』それからは人々を守ろうとする、もしくはそんなつもりなく守ってしまう。それが露伴の主人公としてのポジションなのではないでしょうか。

 

 そしてそれは露伴が『主人公』であるから、というのもあるのですが、露伴の持つ『ギフト』である『ヘブンズ・ドアー』の性質もあるのではないかと思います。

 ヘブンズ・ドアーは(作中の描写でも大まかなことはわかりますが)『人を本にして読むことができる』能力です。

 読む、ということ。ここに大きく意味があるように思えます。

 ヘブンズ・ドアーに記載されたことはその対象となった人の人生の記述そのものです。新たに命令を上書きは出来ても、記述されていた、ということは消せません。

 私は小説だったり漫画を読んだりしますが、一つの作品で自分が得た『真実』と記載された『事実』はイコールで結ばれるものではありません。

 一つの作品を見たときに、ちょっとした描写に意味を見出す人もいれば、「何かの間違い」とみなす人もいます。

 直感的に理解のできない描写があったときに「何か意味があるはず」と思う人もいれば「製作者はそんなこと考えていない」と流す人もいます

 複数回事故にあったとして、それを『運命』と読む人もいれば『偶然』と読む人もいます。

 記載されたことを『読む』ということはそこに記述されたものを『解釈』するということです。

 

 露伴は、そこで起きた出来事根本には干渉はしませんが、ヘブンズ・ドアーで読むように、そこに起きた出来事に意味づけ『解釈』をします。

 それこそが露伴の主人公としての特権性です。

 

 露伴の視点で物語を見ている私たちは見落としがちですが、ドラマ版『岸辺露伴は動かない』で行っていたことを外側から見ると『再解釈』現実に対しての意味づけであったように思えます。

 だからこそ、マナー勝負では『マナーを指摘することはマナー違反』という『別解』を示し勝利し、それによって第一話の太郎もまた『事故にあったと思ったけど奇跡的に無事だった』という『別解』に収まります。

 志士十五もまた、くしゃがらによって狂乱状態に起きていたのを露伴が記憶を消すことで『なんだか十五先生は様子がおかしかった』程度の周囲の認識に収まります。

 そして、第三話『D.N.A』の事故も『低い確率で起きうることで運命などではない』と再解釈します。

 

 露伴の視点では超越的なことが起きていても、それを知らない『ギフト』を見えない人々からは「なんでもなかったこと」に収まる、露伴によって再解釈された現実へ回帰していきます。

 

「結局、真央ちゃんの周りで事故が続いていたのも、ただの偶然だったんですかね?」
「そうなるな。同じ人間が何度も事故にあう確率がどれぐらいがは知らないが、絶対にゼロじゃない。ゼロじゃない以上起こりうるんだ。臓器移植された相手と出会うこともな」
「それは奇跡ですって。ものすごい偶然ですよ」
「だが可能性はゼロじゃない」

 

 人々が自分の力で運命を切り開いていくこと自体は助けない。動かない。でも、そんな人々が人の理から離れた『奇妙な』落とし穴に落ちそうなときにそっと掬い上げる。そんな人々が生きていく世界に意味づけし、戻していく。

 

 運命という強大で、『奇妙な』存在を読み取り、再解釈し、否定する。

 

 それがドラマ版『岸辺露伴は動かない』における露伴の主人公としてのヒーロー性、役割なのではないでしょうか。

 

・再演、アクトン・ベイビー。ジョースター家という『運命』からの脱却について

 

 少し、上に書いた観点から解釈を広げてみます。ここからはギアを上げた与太話に突っ込んでいくぞ!!

 

 真央の持つ『ギフト』についてです。この真央の『ギフト』ですが、ドラマ化にあたって原作とやや改変が行われているように見受けられます。

 原作では周囲の風景に溶け込む『保護色化』でしたが、そこについては触れられず『透明になった』かのように演出されます。

 保護色化ではなく、透明に。ここに一つの見立てを出来る気がします。

 ジョジョ四部で登場した『透明の赤ちゃん』アクトン・ベイビーの再演、再解釈です。

 

 ジョジョ四部で登場した『透明の赤ちゃん』はそのスタンド、『アクトン・ベイビー』の能力で自分を消し、どこにいるのかわからなくさせる能力でした。自らのスタンド能力をまだコントロールできず、身の回りのものを消しながら川へ落下するも、仗助とジョセフによって救出され、ジョセフの養子となり『静・ジョースターとなります。

 

 さて、上に書いてきましたが『ジョースター家』というのは誇り高き血統であると同時に戦うことが宿命付けられた呪われた血統でもあります。

 そこに回収される、というのは果たしてポジティブな意味だけだったのでしょうか?

 そして、透明の赤ちゃん『静・ジョースター』の元々の両親はどこに行ってしまったのか?

 透明の赤ちゃん、『静・ジョースター』であったはずの赤ちゃん。もしもそれが真央だったのなら?

 真央が『交通事故の運命』から逃れられず家族を失った結果、一人になったのがあの『透明の赤ちゃん』だったのだとしたら?

 そして『交通事故の運命』がジョジョ四部、透明の赤ちゃんの終盤であったような川への落下事故であり、その運命からの脱却の方法が『ジョースター家という新たな運命』に入ることであったのなら?

 

 そこに対しての『別解』がドラマ版『岸辺露伴は動かない』の第三話『D.N.A』でもあったのではないかと思います。

 

 もちろんこれらはジョジョ四部連載時には想定されていないことでしょう。

 ですが、そうして考えていった時にこう考えられます。

 ドラマ版『岸辺露伴は動かない』第三話は、ジョースター家という血統の『呪い』という側面からの脱却の物語でもある、と。

 

 ジョジョ六部、一巡した世界でプッチ神父徐倫たちの『意志』を受け継いだエンポリオによって打ち倒されます。その世界で徐倫は(おそらく)ジョースター家、ジョジョではない、『アイリン』という人として生きています。ジョジョのテーマについて掘り下げると別記事になってしまうのですが、これはジョースター家』という運命からの脱却、という話だったのではないかと解釈しています。

 

 そして『岸辺露伴は動かない』これもまた、『一巡後の世界』なのではないでしょうか? そこでは露伴は他のスタンド能力者と出会うことがないため『スタンド』という名称も知らない。吉良吉影という存在と戦ったような様子もない。サイコロを転がすことはあっても仗助とのチンチロリンの戦いについての言及もない。

 そして、だからこそ、透明の赤ちゃんは家族と離れることなく、運命に襲い掛かられながらも今度は自分の『家族』と離れることなく、ジョースター家としてではなく、生きていけるようになった。

 

 6部からのジョジョがやっているように、ドラマ版『岸辺露伴は動かない』もまた、『ジョースター家という運命』に対しての脱却を、『岸辺露伴は動かない』という物語としての人間賛歌と並行して描いているのではないか。*4

 

 なんという離れ技、一つの独立した物語として人間賛歌を描くだけでなく、源流である『ジョジョ』に対しても一つの『別解』を再構成して提示する技量の鮮やかさ。

 これがドラマ版『岸辺露伴は動かない』の完成度の高さの証左であるように思えます。

ドラマ版『岸辺露伴は動かない』本当に良いドラマ化だと思います。

 

 

 

 

 と、色々思うところがあってブログに書いたのですが、言いたいことまとめるために見返していたら当初の想定の倍以上に長くなってしまった……! 

 見返せば見返すほど発見がある作品だったので……

 感想をまとめるために複数回作品に触れるのは自分はまぁ結構あるんですが、文脈の重ね方であったり、要所要所のファンサービス、そしてファンサービスに留まらない精度の高い原作の再解釈など最高のメディアミックスだったと思います。

 年末の四話以降もどんなテーマで描いてくれるのか楽しみです。

 それではこんなところで。

 

 

*1:スタンドってのは百も承知ですが、ドラマ版に準拠した言葉として

*2:『クサレ脳ミソ』で検索しよう!いや、今は自分なりに考えて落とし所は考えたのですがジョジョではまぁ代表的な例でしょう。

*3:私個人の理想としては規制はしても、都度、今の時代、今の世界と合わせてどうなのか、と考え直しての規制解除とかも同様にあっていいんじゃないかなとも思うのですが。あるのかもしれないが。

*4:もっとも、荒木先生自身原作のD.N.Aのエピソードの時点でそのような要素は盛り込んでいる気もしますが。ただフレーバー程度だったものをこうして一つの物語の骨子にした、というのがすごいなと