えのログ

人生五里霧中

それは確かに今の「わたしたち」へのつながる物語。空木春宵『夜の、光の、その目見の、』感想

 

 

 先月になるのですが、光文社文庫異形コレクション『狩りの季節』が11月16日に発売されたのでゲットしました。

 ……と、言っても私は『異形コレクション』というシリーズについて全く認識していなかったのでにわかofにわかなのですが。

 異形コレクション、結構なアンソロジーシリーズとして出ているようで今回で52巻目だとか。すごい!

 

 ただ今回、私がこの本を手に取ったのはこの本のコンセプトというのももちろんあるのですが、収録されている作品の執筆者の方で読みたい方のがあったからなんですよね。でもこのシリーズ、かなり興味が出てきたのでこれ読んだら他のやつも読んでみようかな。

 

 私が今回、目当てだったのは空木春宵先生の『夜の、光の、その目見の、』でした。

 今回はその感想をと。がっつり色々ネタバレ込みで解釈とか書いてます。

 

 

 

 

 空木春宵先生は今年『感応グラン=ギニョル』を出版された作家でSF、幻想、怪奇といった要素を取り込んで物語を書いています。

 タイムラインのフォロワーさんが強くおすすめしていてそれをきっかけに手に取ったのですが、この一冊、今年新たに出会えた小説の中で本当に『最高』という感覚になる一冊で、いずれブログにも書こうと思っていたのですが、そんな余韻に浸っているうちに最新作が『狩りの季節』で公開されるということを知って飛びついたってのが今回の最大の動機。オススメです。

 

 今回空木春宵先生の『夜の、光の、その目見の、』は『狩りの季節』の大トリ、ラストの短編でした。「順番に読んでいった方がいいかなー」と思いつつも自分は興味あるとこから言ってしまうタイプだったのでいきなり読んでしまった……堪え性がない。

 

 この短編『夜の、光の、その目見の、』がやっぱりとても良い……本当に自分にとって「読みたい物語」がそこにある、というか私自身が世界(大袈裟な表現かもしれないが実際にそう思っている)に対して感じているような感覚、というのを救い出してくれていると錯覚してしまうような精度の文章、物語、そして『視点』がある小説で読んでいて夢中になって買ってから何回か読み返してしまいました。

 

 今日はそこについて書いておきたいなと。というか、空木春宵先生の小説は凄くて、実際に『狩りの季節』でも大トリだったりと確かに波が来ている感じもするのですが(自分の独りよがりな感覚と自覚しつつも)今よりももっと多くの人に届いて欲しい、と思うほどに『今』の小説だと思うのですね。

 それはただ単に取り上げる題材だけではなく、小説に通底する『怒り』や『尊厳』といった感情そのものが『今』を生きる人々(まぁここでいう人々、は「私のような人々」の意味なのですが)の救いになるのではないか、何処かで孤独を感じている人にとって勇気が与えられるようなものなのではないかとすら感じるからなんですよね。

 今回の『夜の、光の、その目見の、』はそこが『感応グラン=ギニョル』よりもより一歩踏み込んだ描かれ方をしていた小説だったなと感じた、自分が見出してしまった、受け取ってしまった、という手触りがあります。

 

・『感応グラン=ギニョル』の延長線にある想像力

 

 今回の『夜の、光の、その目見の、』はあるインタビュアーである記者「私」と、インタビュイーである画家「斯波」の一夜の『狩り』の物語です。

 インタビューとして斯波の作る『絵』が作られる過程に「私」が立ち会う内に、二人のベールが剥がれ、それぞれの人間性や思考が描かれていきます。「私」がかつて画家を目指していたこと、優れた容姿であったが故に容姿ばかりが取り上げられて自らの絵に興味も示されず、筆を折ったこと。そこで書かれているのは『世界』の理不尽さであり、怒りです。

 ですが、この物語が最後に『着地』するのは筆を折った「私」にとっての原点回帰であり、再起です。過程として描かれる『世界』に対しての『怒り』を感じさせてくれる内容でありながら、物語の終わりはとても柔らかく、慈愛に満ちたものとなっています。

 

 まず読んで思ったこととして「ああ、感応グラン=ギニョルの先が描かれているのだなぁ」という感覚がありました。

『夜の、光の、その目見の、』は『感応グラン=ギニョル』の収録作とはある程度テイストが重なりつつも、異なっている部分があります。『感応〜』はどの作品もかなり『苛烈』であり、通底するものとして自他全てを巻き込んだ(それは作者、読者すらもの巻き込むほどの)『怒り』を感じる作風なのですが、それに対して『夜の〜』はある意味でとても『優しい』着地をする物語です。

 しかし、その結末自体、「ただそういう気分だったから」なのではなく『感応〜』を踏まえたテーマ的な止揚であるように思えたからです。

 ある意味でこの作品が生まれたこと自体、必然のような要素を感じます。

 

 

・ベールが剥がされる、剥き出しにされていくということ

 

『夜の、光の、その目見の、』は一夜の物語です。上に書いたようにインタビュアーの「私」と斯波は夜の中で様々な場所へと赴き、夜を集めていきます。

作中でイアンナの冥界下りに擬えるように権能が奪われる様子の文章が挿入されていきます。

 

 ここでベールを剥がされていたのは誰なのでしょう? この視点の移り変わりがこの小説でコントロールが絶妙で「面白いなぁ……」としみじみしてしまった箇所でした。

 初見の時は斯波のベールが剥がされていくのかと読み進めているうちに、いつの間にかベールを剥がされていくのは「私」になっていく。

 かと思いきや斯波もまた、物語の冒頭のミステリアスで、芸術のために他のものの犠牲を厭わないといった『芸術家』的なパブリックイメージとは全く違う情緒を持った人となりであるということがわかる構成になっています。

 ただ、読み返して更に考えていくとそこで紐解かれていくベールはこの物語を読む私たち、『読者』にすら向いているのではないという感触がありました。

 

 物語の序盤、「私」と斯波は『読者である私たち』にとっては遠い存在です。作中で語られる斯波の絵についても現実とは遠い存在であるようで、現実が舞台の小説ではあってもファンタジックな印象を受け取ります。

 ですが、徐々に「私」のベールが剥き出しにされ、描かれていくうちにそこにある『怒り』は容姿の美しさで「私」自身の為そうとしていることに全く興味を示さない『世界』の不理解です。ルッキズムという要素で見れば、関心がない人もいるかもしれませんが、そこの根本にあるのは他者を安易な尺度でジャッジし、『個人』に興味を持とうとしない、他者の心を踏みつけるという不理解であるように思えます。

 

 日常の中で他者からの(そして自己から他者への)不理解というものはとてもありふれているように思えます。学校、職場、プライベートな空間、SNS、人と人の間で不理解という断絶はついて回ります。それはある程度であれば許容できるものかもしれませんが、その不理解が周囲の人間、あらゆる方向から向けられるものであった時にとても個人が耐えられるものではないように思えます。

 私自身、日常で「ああ、この人は私の言ってることを欠片も理解する気がないのだな」と感じるような安易なジャッジとしての不理解を突きつけられた時の喉の詰まる感じはとても嫌なものだという気持ちがあります。

 後でもう少し書きますが、ここ二年ほどの私たちを取り巻く『コロナ禍』といった出来事はそんな人々の間の不理解をとても強く可視化した出来事であったように思えます。

 だからこそ、作中で描かれる「私」の絶望というものは「私」と背景の異なる「わたし(えのき)」にもまたダイレクトに伝わってくる。

 作中で「私」が解き明かされるほどに、その様に同期し読者もまたベールを剥がされていくというのが実に面白いなと思いました。

 

・視線について、見る事と視る事、頭上の視線

 

 私は周囲に視界を走らせながら足速に歩み寄り、「人に見られて大丈夫なんですか?」

「君だって見てるじゃないか」斯波は事も無げに云い、悠然とした手つきで壜に蓋をした。

「いや、そうではなくて」

 冗談だよと彼女は薄く笑い、「誰も碌に視てやいないさ。見る事と視る事は違うからね」

光文社文庫『狩りの季節』空木春宵『夜の、光の、その目見の、』p.572

 

『夜の、光の、その目見の、』では『視線』が一つのキーワードとなっているように思えます。それは作中で『私』が多くの人にその容姿の美しさから一方的に『見られた事』であったり、師であった画家から「手よりも眼を鍛えなさい。絵は指ではなく眼で描くものだ。」と言われかつてはその言葉の通り絵に取り組んでいたことであったり、遥か頭上から「私」と斯波をみつめる視線であったりです。

 

 それらは「見る」という意味では同じですが、斯波の言う『見る事と視る事は違うからね」という言葉で分けられているようです。

「私」は斯波と夜を巡るうちに世界の解像度を上げていきます。同行している斯波の、というだけではありません。そこに生きる、夜に生きる人々であったり、そこの場所のちょっとした違いについて「見る」だけでなく「視る」ようになっていきます。

 それは「私」の外側に向けたものであると同時に内側、「私」の内面に対しての解像度でもあります。

「私」自らを覆い隠している様々なベールを剥がしていくことで、自分自身のコンプレックスであったり、仄暗い欲望であったり、様々なものを明かしていきます。

 そこで行き当たるのが「私」の仄暗い欲望、芸術家というものの虚飾を引き剥がし、その人物の俗物性を知ることで「画家なんて大したものじゃない」と実感したいという動機です。

 それは「私」が自らをも含んだ世界に対しての解像度を上げる以上、避けられないことであったのでしょう。

 「私」が直面するのはかつて自分が嫌であったはずの一方的なジャッジの視線を人に向けているということ、「私」自身がそれを下すためにかつて鍛えた『眼』を使ってしまうという皮肉です。それは周囲の画を見ずに自分の容姿だけを「見る」という芸術界隈への復讐でもあり、かつて「眼を鍛えなさい」と金言となった言葉をいった師の底を知ってしまったことへの失望もあるのでしょう。

 だからこそ、「私」の中には怒りがある。自らの、かつて憎んでいた『視線』に重なってしまう怒りが。

 

 ですが、本当にそれだけだったのでしょうか?

 外界への解像度を上げ、内面、自分自身への解像度を上げて理解を深めていった先にあるのがそういった悲しいことだけだったのでしょうか?

 それ以外、何もなかったのでしょうか?

 

 それについては終盤、スケートボードに興じる若者達についての斯波との会話が象徴的でしょう。

 

(前略)散々考えた末、結局、わたしは答えに窮し、「さあ。ただ、ああやって練習する事それ自体が愉しいからじゃないですか?」

「うん、きっと、そうだろうね」投げ放すような返答に対して、斯波は意外な程素直に首肯した。「わたしにも、そう見える。そう、愉しむ事自体を愉しんでいるように見える」

光文社文庫『狩りの季節』空木春宵『夜の、光の、その目見の、』p.590

 

 その答えは「私」自身へと帰ってきます。狩りの終着点、そこで私は一度の『死』を経て、もう一度筆を取ることになります。

 そこであるのはかつてのように周囲の『視線』にばかり意識が掻き乱される世界ではなく、プリミティブな感情や衝動、『ただ描くことが愉しい』という世界です。

 たとえ、その後かつてと同じ悩みに晒されるとしても「今はそれでも絵を描くことが愉しい」という境地です。

 

 この小説を読み終わった後に私が読み返そうと思った『感応グラン=ギニョル』の短編が二つありました。

『地獄を縫い取る』と『Rampo Sicks』です。

 

『地獄を縫い取る』は近未来を舞台にした作品で《蜘蛛の糸》と呼ばれるデバイスによって動画を五感で体験でき、《エンパス》と呼ばれる技術を利用することで人の体験そのものを共有できます。そんな世界での児童ポルノ犯罪の検挙のために『全く人間を模した』AIを生み出し、それを囮として犯罪者に加害させる。

 そこで描かれるのは決してその種の加害を許さないという主人公ジェーンの『断罪』と、そのための手段として『全く人間を模したAIを生み出し、加害させるということ自体』を行なった自分をも『加害者』である、という徹底した『断罪』の目線です。

その目線はおそらく作者や読者をも貫きます。そこにあるのは徹底した視線、視点のブレなさです。

 

Rampo Sicks』は美醜が数値化、観測可能な世界で周囲の人々が『醜い』とジャッジされ、世界の数値でも下位となってしまっている不見世という少女が自らの『美しさ』を肯定する話です。そこにあるのは『感応グラン=ギニョル』から共通する「わたし達を、憐れむな。」という尊厳に満ちた主張です。

 

『地獄を縫い取る』はその作品に込められた『視点』の妥協のなさ故の『怒り』の向かう先、『Rampo Sicks』では作中で示される『怒り』の根本の理由が描かれているように改めて感じたからです。

 

 その二つの作品から改めて『夜の、光の、その目見の、』という作品を見渡した時に、表層的な意味合いでは『Rampo Sicks』で「周囲から醜いと認識された人」を描いたからこその、「書かなくてはいけない」という必然に近い納得感、そしてその奥に込められた作品のテーマには『地獄を縫い取る』に特に顕著に出ているように思えた『視点』故に辿り着いた一つの答えがあるように思えるのです。

 

 自分自身ですら除外することはない視線を送り続ける前者、自らの『怒り』の根源が『あたしは可哀想な存在なんかじゃない!』と言い放つ自分への尊厳を取り戻す後者。これらの延長線にこの物語があると思うのです。

 

 だからこそ、途中までは『怒り』で駆動していたかのような物語が、更に一捻りされ、「私」にとっての根源、自らの最初の楽しみを取り戻していく。現実の中で、それでももう一度歩いていこうとする。

『夜の、光の、その目見の、』という小説は『怒り』で彩られた『感応グラン=ギニョル』という作品の先の想像力、『怒り』の先が描かれた物語だと感じました。

 

 なぜ怒るのか? その先にあるのは「確かにそれを愛していたから」それを愉しむ、誇りに思う心があったから、という風にまさに『視て』いくというスタンスの徹底、そのブレなさが読んでいて気持ちが良いものがあります。

 

 視線についての話でさらにもう一つ、頭上の月が双眸であるように描かれる描写があります。

 

 仰ぎ見た空には、鏡写しのように並んだふたつの月が浮かんでいた。

 錯覚でもなければ見間違いでもなく、確かに其処に在る更待月と十三夜月。何処か、人の双眸を思わせる様だ。在りべからざる光景にもかかわらず、わたしは不思議とそれを受け容れていた。こんな奇妙な夜には、そんな事だってあるのかもしれない、と。

光文社文庫『狩りの季節』空木春宵『夜の、光の、その目見の、』p.589

 

(前略)今やそれは「双眸のよう」なのではなく、人の両眼それそのもに変じていた。

光文社文庫『狩りの季節』空木春宵『夜の、光の、その目見の、』p.591

 

 

 序盤から描写されていた月が人の瞳であるかのように描かれる。

それはラスト「私」が身を投げる瞬間にも描写されます。慈愛のこもった瞳であるかのようにそれは描かれています。

 これについて考えてみました。

 先に書くとこれは、おそらく斯波の眼でもあり、斯波の絵を見る人=読者の瞳でもあるのだろうなと。(もっと言うのなら作者である空木春宵先生の眼でもあるかもしれない)

『夜の、光の、その目見の、』は一夜の物語ですが、物語が進むにつれて明かされる真実があります。

「私」と斯波が語り合い、巡る夜自体が斯波の生み出した『絵』の中であるということです。

 

 斯波は今夜集めた夜気を用いてこれから新作を描くのではない。それはもう既に、描き上げられているのだ。そして、わたしは——十一月二十日から翌午前一時二十分にかけてのわたしの心は——その絵の中に居る。(以下略)

光文社文庫『狩りの季節』空木春宵『夜の、光の、その目見の、』p.594

 

 斯波の絵は見たものに様々なイメージを想起させます。その絵を「視た」それぞれの人々に夜と死のイメージを与えます。

 これはちょうどこの小説とシンクロした読者の関係と重なります。この小説を読むにつれて物語の語り手としての「わたし」であったはずが各々読者自身の痛みなどを投影し「わたしたち」の物語になるという構造。

だから、この『夜の、光の、その目見の、』という小説自体が斯波の絵を見た「わたしたち」のイメージを文字に落とし込んだ小説、と考えることができないでしょうか?

 そうして、語り手である「わたし」にシンクロし、その痛みを感じ、夜を巡る様を「視る」視線として同行した「わたしたち」には世界に対しての解像度同様に語り手である「わたし」が怒りだけでない、ということに薄々気がついている。だからこそ、これからの「わたし」という存在に絶望をしていない、希望を持って、慈愛に満ちた眼になっている。

 この小説『夜の、光の、その目見の、』を読み進めるうちに、語り手の「わたし」の物語はいつしか斯波の絵を見た「わたしたち」の物語ともなっている。

 そんな構成がとても冴えていて、面白いなぁとしみじみ思います。

 

・斯波が狩ろうとしているものは何か、失われた夜、コロナ禍、斯波にとっての救済、物語に込められたエール

 

 『狩りの季節』というこの本自体『狩り』というのが主題となったアンソロジーです。作中で「わたし」は斯波が狩っていたのは「わたし」自身、と考えそう発言します。

 

 ただ、改めて『夜の、光の、その目見の、』を読み返して斯波が狩ろうとしていたものは果たして本当にそれだけだったのか? ということが気になりました。そして、なぜ斯波がそうしているのか。

 

 まず、この作品での『狩り』とはなんだったのでしょう。

「わたし」は確かに斯波と夜を巡るうちに、あらゆるものが引き剥がされ、自らを覆っていたものを剥奪され、直視することになります。

そして、最後の地点で身を投げる。

 

 ですが、「わたし」の死は命を失う、ということではありません。作中の言葉に沿って書くのならば『固定観念』であり、「わたし」はそれを捨て去ることで再起する、自己救済をすることが出来ました。

つまり、『狩り』の結果、「わたし」はかつて失っていた自らの欲求を取り戻す事が出来た、再び自分のうちに得ることが出来たのだと思います。

 

 早速、カバンからICレコーダーを取り出し、録音ボタンを押して相手に向ける。此方の質問に先んじて吹き込まれたのは、斯波の愉しげな声だった。「さあ、狩りに出かけよう」

光文社文庫『狩りの季節』空木春宵『夜の、光の、その目見の、』p.560

 

 この『狩り』は斯波の主導で行われたものですが、斯波だけで行われているものでもありません。「わたし」と斯波、二人で行われている『狩り』なのではないかと思います。

「わたし」が狩りの結果得たもの、それはかつて失ったものです。

本作における『狩り』とは、「かつて失った何か」を取り戻す行いと言えるのではないでしょうか。

 

 では、斯波にとっての『狩り』何を斯波は取り戻そうとしているのか。

 失ったものについては改めてこの視点で読み返してみるとびっくりするほど直裁に書かれています。

 

「わたしはね、此処の景色が大好きだったんだ。そう、わたしが愛していたのは、夜の闇じゃなく、夜の光。弱々しくて、儚くて、だからこそ、堪らなく愛おしい」

 何故か過去形で語る相手に、「今はもう、そうは思わないという事ですか?」

「いや」と寂しげに云って首を振るや、斯波は片目を持ち上げ、「もう、失われたからだよ」

光文社文庫『狩りの季節』空木春宵『夜の、光の、その目見の、』p.590〜591

 

 斯波が失ったもの、それは『夜の光』です。斯波がそれを語った場所で様々な人が繋がり合い、触媒になるような空間から放たれる光。

 

 ここで斯波が絵に混ぜた『過去の夜』が関係してきます。斯波が絵に混ぜた過去の『夜』は2019年の過去のものです。

 最後のシークエンスの会話でふと描写されるマスク、「こんなご時世だというのに」という斯波の言葉、二年の年月で失われたもの、それは強烈に『今』を取り巻く状況は、「わたしたち」が今直面しているコロナ禍を想起します。

 

 斯波のいう『夜の光』人々が思い思いに関わり、見失ってしまったものを照らしてくれるような光が斯波が視ていた、失ってしまった夜にはあるのでしょう。だからこそ、「わたし」は混ぜられた2019年の夜の光によってスケボーに思い思いに取り組む人々を見て「ただ愉しかった」という感覚に気づきます。

 そう、斯波の言う、かつての夜というのは『人々のつながり』によって見失ってしまいそうな何かを救い出せる、そんな『夜の光』があちこちにある夜だったのでしょう。

 

『夜の光』それはそんな人と人の『つながり』そのものといってもいいかもしれません。

(結構多いんですよね……コロナ禍で会う機会なくなった人とか……あとネットでの色々な価値観の違いとかが過去以上に浮き彫りになったのとかあって失った『つながり』みたいなものを考えるとちょっと気持ちが落ち込んだりするところもある……)

 

 という視点からこの作品を俯瞰したとき、斯波が本当に『狩りたかったもの』=取り戻したかったもの=夜の光、がこの夜の『狩り』でどうだったのか、というところが視えてくる気がします。

 作中で言われているように斯波が集める夜気はただの闇ではありません。そこには人々の心が溶け出しているものです。そこに溶け出す心が救われない心であるのならば、その夜気はきっと(この世に存在しなくても構わない色とまではいかずとも)斯波にとって好ましい色ではないのではないでしょうか。

 そして、その夜気は夜に生きる一人一人の心が溶け出している。

 それは長く、途方もない話かもしれませんが、夜に存在する一人一人の心が救われているのならば、きっと夜気もより好ましい色になるでしょう。

「わたし」は斯波と夜を巡ることで自分自身の原初の心を取り戻しました。もう一度筆を取ろうとすること。それは「わたし」にとって、再び世界と『つながり』を取り戻そうとする営みです。

 

 それは斯波が絵に込めた『かつての夜』にとても似た心の色をしているのではないでしょうか?

 だから、「わたし」の救済、というのは同時にその心の溶け出した夜を愛する斯波にとってもまた救いなのではないでしょうか? そしてそれが端的に示される事柄として斯波が「好き」である「わたし」の絵はまた描かれ始めます。

 同様に少しずつ、それはとても気の長く、地道な道のりかもしれないけれど、斯波が愛した『夜の光』もまた「わたし」のように再生をしていく。

 それが斯波にとっての『狩り』であり、コロナ禍を生きる「わたしたち」へのこの作品からのエールのようなものではないでしょうか。

再び筆を取った「わたし」が再び同じ目に遭うかもしれないと思いつつもそれでも視てくれる人はきっと居ると信じること。再び斯波が愛したかつての夜が戻る時がくるかもしれないということ。「わたしたち」が生きる世界が再び元の姿に再生してくれるということ。理不尽な世界の中で確かに暖かなものがあるということを信じるということ。

 

 そんな念が込められた小説、それが『夜の、光の、その目見の、』なのではないかと読んで私は思いました。

 とても好きだなぁ……と。

 

 最近労働がとても大変でまだゲットできていないのですが先日出た『紙魚の手帖Vol.02』にも空木春宵先生の新作『ウィッチクラフト≠マレフィキウム』が乗っているそうです。これも仕事落ち着いたら早く読みたい……

 

 

 

 

 ではでは。そんなところで。

 今月も何回かブログ更新したいですね……し、しごと……(ねんまつでとてもいそがしい)