えのログ

人生五里霧中

ALTER EGOプレイ日記『人間失格』

・今更ながらALTER EGOのプレイ日記を書いていく

・該当の本を実際に読んだ上でプレイしていくことを最重要視するので時間は問わない

・続くかもしれないし続かないかもしれない

 

 

 いつからそこにいたのかはわからない。今いる場所が『空間』といっていいのかもわからない。

 ただ、エゴを集めるように言われて宙に浮かぶ言葉のようなものを集めていた。

 

 本を読むように言われる。

 太宰治の『人間失格』ずっと昔に読んだことがあって、でもほとんど内容は覚えていなかった。

 幸い、時間だけはあるようだったから久しぶりにその本を読んでいく。

 

 文章を読む力が衰えていて、何度も同じところを読み返すといったことをしていた。それでも元々の読む速さがまぁまぁ早いことや、あらすじを知っていたこともあって二時間ほどで読み終わった。

 物語は語り手である葉蔵の半生で、人間や人間社会への恐怖が彼の視点から描かれている。

 昔、読んだ時は僕は中学生だったな、と思い出す。人の心の機微がわからず道化として振る舞うことで自分を守る葉蔵の振る舞いに当時は相当に共感し、最後のマダムの言葉にはそんな葉蔵が報われたような気がして、そして葉蔵に共感した自分もそのように人に思われているのではないかという風に思って救われたような気がしたことが、するすると脳の内側からやってきた。

 

 ただ、今の僕が『人間失格』を読んで思うのは中学生だった頃の僕と半分重なっていて、半分異なっている。

 人のふりをしている人、というのは今の自分でも共感の出来ることだった。いや、振り返ってみるとまともな人間『ごっこ』すら出来てなかった中学生の自分よりも、ある程度人間ごっこをやってみたけどやっぱり徹しきれずにこんなよくわからない空間に来ている今の方がむしろ染み渡るものがある。

 人のふりをして生きるのは、難しい。

 みんなそうなのかもしれない、そう考えることも出来るけど、人と同じように生きるのは難しい。

 そうして今の僕の心境を重ねて読んでいった時に、最後のマダムの言葉は以前とだいぶ違った読み味だった。

 

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

 

 昔の自分は救いに感じた言葉だったけど、葉蔵は苦悩して、恥を晒し、醜いと思う内面を曝け出してもなお外からみた『葉蔵』という人物像は変わらない。手記を送ったことが自分の何かしらを理解してほしい、外面ではなく、真実の(そんなものはない)自分を知ってほしいという叫びだったのだとしたら、これは途方もないディスコミュニケーションなのではないか。

 身を削って、身を晒しても、伝えたいことを結局理解してもらえない。

 

 でも、自分の認識が歪んでいて、他者が自己よりもより鋭く正確に物事を理解できるという場合もあるともまた考える。

 ただ、最後の自らを人間失格と認識しながら最後の言葉として手記を送ったかもしれない葉蔵の視点に勝手に僕が自己を投影して考えると、やっぱりマダムの言葉は辛いものがあるように感じた。

 

 そう思って本を閉じる。なるほど、確かに名作だと改めて思う。葉蔵を通じて描かれる悲哀であったり、それが(個人的な感傷を抜きにすると)マダムの言葉によってあらゆる外から見たら明るく、屈託のない良い子である人にも何か悲しみがあるのかもしれないという普遍的な人間理解に通じているところがある。

 優れた作品は時間を超える、というのはあまり気に入らない言い回しだけど(時代を捉えた、その時代にだけ通じる作品だってそれはそれで優れているはずだ)この作品には確かな『強度』があると感じた。

 きっと、来年、再来年、十年後と読むタイミングが変われば感じることも変わるのだろう。

 

 声がして『エス』と会えと言われた。

 エスは女性と思われる姿をしていて、いくつかの質問を僕にする。

 

 

 躁的防衛型と言われる。

 反論したい気もするけど、浮き沈みは激しいし、常に不安だし、そうなのかもしれない。

人間失格』の葉蔵について僕は思い出す。

 自分の内面を決して理解されないのと、自分でも炙り出されたくない内面を見抜かれること、どっちが辛いことなのだろう?

 

「エゴが溜まったらまた来なさい」

 

 エスはそう言った。

 僕はまた本を読みに戻っていく。