表(ムービーナーズさんでの紹介記事)
ムービーナーズさんで紹介記事を書いたのだけど、この作品について語ろうとするとどうやってもネタバレ全開になり、かつ紹介の体裁を維持することが出来ないのでこっちでも書く。
まずは初手謝罪。「この映画について書く!」と言っておきながら相当な期間放置してしまったこと、本当に申し訳ございませんでした……
当時見た時の感覚を文章にするには色々と難しくなってしまったけど、今の自分にとっての『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』の感想とかを書いていく。
客観的に突っ込んだ話も書いてみたいんだけど、まずは主観的に語らないとこの作品との適切な距離を自分で作れない感じがして……
ということで以下、感想やら考察のようなものやらです。自分語り多数。許してくれ。
9千字ほどあります。
ではスタート。
・自分とサメ映画と本作について
理由は色々あって、これに関してはずっと頭の片隅に残っていた。書くべきなのに止めている、という感覚があった。
最初ムービーナーズさんで書こうと思っていて、色々なサメ映画の作品をレビューしたうえでそれを踏まえた記事にしようかな、と思っていてだから他のサメ映画レビューを蓄積しようと思っていたのが一つ。
ただ、そうやっているうちに自分の中で「サメ映画の記事を書く意義」みたいなものがどんどんわからなくなって語れなくなった、というのが一つ。
結構な期間サメ映画レビューを止めていて、それは忙しかったのもあるけど、自分の中で「何が書きたかったのか」「何をしたいのか」がわからなくなっていた時期があった。
ムービーナーズさんでのサメ映画レビュー、どこまで成功しているかはわからないんだけど「なるべくサメ映画を下げない、卑下しない」「道化にするのは自分」というスタンスで書こうと思っていて、それは世の中にあるサメ映画レビューはやっぱり「こんなクソでどうしようもない映画があるぜ」ってレビューがとても多いから。
それ自体は悪いことじゃない。実際にサメ映画の大半、というか自分が好む映画も世間一般の『映画』として評価されるような代物じゃないということは十分わかっているし、なんなら作っている側も適当にやっている時だってあるだろう。
チープで、血飛沫が飛んで、支離滅裂で、肝心のサメもしょぼい。
そんな映像が腐るほど存在している。
ただ、私はそんなサメ映画が好きで、そのサメ映画のどうしようもなみたいなものが好きで、そしてそれを「面白いな!」と思っていて、それを伝えたいな、という気持ちがあってサメ映画レビューを書きたいと思った。
サメ映画にハマったのは仕事でかなりメンタルが参っている時期で、なんでだったかは覚えてないけど、そんな時にサメ映画を色々巡礼するように見たって感じだったと思う。
いわゆるZ級映画自体は学生時代から見ていた。友達と集まってワイワイみていた。ただ友達が「いやサメ映画ワンパターンだろ」って言われて提案してもサメ映画を見ることは叶わなかった。そういう土壌はあった。
当時の自分にとって仕事というのは『意味』や『価値』をひたすら求められることで、そしてその『意味』や『価値』は自分にとってはそうではないものばかりだった。働いていて「あ、これがこうで」というと「あ、っていうのやめてね。はいもう一回話して」とかお昼の時の会話とかでも「いま、あ、ってついたよ」とか、そういう会話がめちゃくちゃあって、仕事わからない中で色々やっていて助けを求めても「結論から話すようにまとめてから話して」と言われてさらにパニックになるとか、パワハラではない、はずだったんだけどとにかく当時めちゃくちゃにきつかった。いや、最近もきつくて転職して結局その転職した仕事も辞めるんだけど。無職になるんだけど。
そんな中でサメ映画の『無意味さ』『無価値さ』ってのは本当に凄い。エネルギーの塊みたいな『無意味さ』『無価値さ』だった。もう見ていて何のためにもならない90分ほどの時間をぶん投げる行為。
あらゆる映画の文脈でいうならやってはいけないことのオンパレード。
それを『サメが出る』だけでゴリ押しする。
痛快だった。爽快だった。快感だった。
日常で求められる『意味』と『価値』をサメ映画を見ている時は忘れられたし、たくさん笑えた。
チープなCGのサメが出てくるとそれだけで心が躍ったし、作中のロジックが完全に破綻していて意味不明なキャラが出てくるともうそれは最高だ。血飛沫はチープでいいし、なんだったらペイントで上書きしたようなショボさでも構わなかった。
ただ、どんな物語にも『意味』は生まれる。『価値』だってついてくる。
シャークネードシリーズは最初は『面白サメ映画』でチープで唐突なシーンとかで笑いを誘ってくれていて、一作目では話を成立させるレベルの必要性で作られていたと思われる『家族』の話から二作目でフィンの英雄譚になり、三作目以降は開き直ったパロディのギャグ路線へとなっていく。それは時に滑っているように感じる時はあったけど、鮮烈な流れ星のような映画で、キャラクターたちに知らず知らずのうちに愛着が湧いていた。彼らの物語のいく末が気になっていた。
最終作、ラストチェーンソーは劇場に見に行った。泣いた。
どうしようもなくチープな絵面で、荒唐無稽な展開で、最後までサメは出ていたけど、それでもラストシーンを見た時に深い感動があった。
それは仕事とかで自分が感じていた『意味』や『価値』とは全く違う『意味』や『価値』だった。
すべてのサメ映画が『シャークネードシリーズ』みたいなことが出来るわけではないけど、『サメ映画』という土壌があるからこそ生まれた作品だったと思うし出来た体験だったと思う。
サメ映画には『意味』も『価値』もある。少なくとも自分の中には。ただ世の中でそれを受け入れられていないし、それを好きかもしれない人にまだ見つかっていないだけだ。
だから、それを少しでも人に伝えたい。
そんな風に思った。
ムービーナーズさんに応募して書こうと思ったのはそういう背景がある。とはいえ最初からここまで明確に意識していたわけではないけど。
ただ「クソを笑うために見る」ではなくて、「クソと言われるけどそこにはまた違った面白さがある」ということを伝えられるようにしたいと思って書いていた。
ただ中々そうやって書いていくのは大変だった。
まぁ結構辛辣だったり冷ややかな反応が来ることが多くて、これが万バズしている状態ならいいんだけど10RTとかそういう状態でそういうのが来ると結構なしんどさがあった。ツッコミ的なのもあったと思うんだけど、まぁしんどかった。ムービーナーズさんでライターとして書いてるってのもあったのかな? ただ一応金銭のやり取りはあるんですけど、こう本当に記事を書くにあたってDVD買うだけで大赤字みたいな感じだったので自分としてはなんというかこのブログ外で書く、ぐらいの感覚で、そのギャップもしんどかった。
ただ応援してくれた方もいたし、それに応えたいし、サメ映画を広めたいって気持ちがあって書いていたんだけど、記事をきっかけにその映画を見るってリアクションってまぁ観測できないんですよね。基本的には。それはそう、だってRTしてくれたフォロー外の方を見ているわけでもないしね。
それで思う。「サメ映画広めるならTwitterでワンツイートの宣伝の方がよかったのでは?」と。
極端な話、今のインターネットは長文はもうそれだけで好かれないというところまで言っていると思う。もちろん長文を好む人『も』いるが、あくまで『も』で、わかってはいたけどそれは記事を公開していくと痛感しますね、本当。
ただ、棲み分けはできると思っていて「拡散性はTwitterとかに劣るのは当然だから長文で出来るやり方でやろう」と思ったんですよね。
だから、Twitterだけじゃ伝えられないような部分とかをなるべく記事にしていったつもり。
このポイントが面白いな、ここが良いと思うな、ととにかく人に響きそうなところをまとめていく。もちろん自分の視点は入れていたけど、人に伝えたいという気持ちがどんどん膨張していく感覚。
そうしてほぼ休止する前は結構今振り返ると迷走していたなって感覚があって、自分の軸、みたいなものが迷子になっていたり、やりたくないと思っていた「サメ映画を道化にする」みたいになっちゃってないかな、って自分に対して思っちゃったり、ファスト映画とかそういう流れもあって、自分のやってることが同じようなことなんじゃとか思っちゃって、「こうやってサメ映画について長文で書くこと自体サメ映画をダメにしているのかな」とか考えちゃって完全に頭が止まる。
サメ映画について語るのが怖くなる。
すっかり『仕事』と同じように『意味』と『価値』をサメ映画レビューを書く上で考え続けちゃってた。そういうところから抜けさせてくれたサメ映画が好きだったはずなのにね。
実のところ、ちょっと前にアップされた『シン・ジョーズ 最強生物の誕生』の記事も書こうと思って手が動かなくなっていた作品だった。この作品はDVD発売日とほぼ同時にゲットして、見て「めっちゃ面白いじゃん!」となったんだけど、語れなくなってたんですよね。
それで最近、色々あって仕事を辞めることにして、『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』を見直した。
なんで『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』だったか。それはいつか書かないと、と思っていたのもあるし、以前見た時の印象から「なんか今はこれを見よう」という風に思ったからだった。
今の自分がこの映画を見て心が動くのなら、後半で心が動くんだと思っていた。後半がとてもいい映画だから。
でも実際にはマシューが首になるまでの一連のシーンでもう感情が止まらなかった。以前はそうでもなかったのに。
『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』のマシューは昇進試験で「親がそう言ったから」「上司がそう言ったから」って感じのことを言っていて、それはジェイソンが自分のところへ転がり込んでくる話で頭がいっぱいだったからというのもあるけど、それぐらいマシューも人から『意味』や『価値』を求められていたんだろうな、と思った。そうやって過ごしていると、だんだん自分にとっての『意味』や『価値』がわからなくなって飲まれていく。好きだったことが本当に好きだったのか、わからなくなっていく。
サメ映画レビューを書けなくなって無職になる自分とマシューが完全に重なって、いや重ねてしまった。
マシューは映画関係の会社に勤めていて、それは対外的にもちゃんとした会社だと思うんだけど、それは多分親に言われたから、ではないと思う。ただ、マシューももう理由を自覚できていなかったんだと思う。
後半でジェイソンが「まだ(サメ映画を)好きなんだ!」と言う。それはきっとそうだ。
でも、映画の最初ではそれを忘れていた。
マシューなりに、何かしら『好き』を持ち続けたいと思っていて、親の言うこととかを聞きながらその『好き』を守ろうとしたのだと思う。でも、それもいつの間にか自分で忘れてしまっていた。
そんなことを見ながら考えていて、本当に悲しくなった。
どうして『好き』を守るのってこんなに難しいんだろう。
ただ、『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』は当然そこでは終わらなくて、ジェイソンが訪ねてくる。
「完璧なタイミングだ」みたいなことをジェイソンが言ってその理由は兄弟が再会して、マシューが仕事を辞めるから。「またサメ映画撮れるぜ!」って。
凄い体験だった。映画を見ていて自分に対して言葉が放たれているかのような瞬間。
ちょっと仕事やめたの組織で働くの今きついな〜って感覚があって当分無職やろうと思っていて、何やりたいかもわかんなくて、何できるかもわからなくて、とにかく休もうって気持ちだったんですけど、そんな様子見てたら急に「またサメ映画について書くか」みたいな気持ちになったんですよね。
サメ映画は好きだけど、自分がやりたいのは多分文章とかで何かしらやることなのかな〜という感覚の違いがあって、そう考えた時にやりたいのがやっぱりサメ映画の魅力について語りたいという気持ちだったんですよね。
『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』で
映画に大切なのは結末じゃない。心に何を残すかだ。
人生と同じだね。
ってセリフがあって、それが本当にそう。
初めて見た時はクライマックスでとにかく感動して、見返した時もクライマックスには感動したんだけど、もう最近見た時は終始全身でこの映画を体の芯に刻んでいる感覚。
だから初回見た時はクライマックスで目頭が熱くなったんだけどもう、ずっと情緒揺さぶられていたよね。
『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』はサメ映画の外から見たくだらなさ、みたいなのを徹底して自覚的に描いていて、それでもなお、「サメ映画が好きだ!」って感覚をフィルムに残そうとする意志を感じる作品でもうそれだけで本当に好きだ。
たぶんこれがなかったら『シン・ジョーズ 最強生物の誕生』の記事も書けてないんですよね。書くことは頭の中にあってもそれを信じることが難しくなっていたから。
終盤のマシューが脚本に書き込むシーンは思い出すだけで涙が出てくる。
作中で言及されていないけど、マシューも『サメ上陸』を忘れてなかったと思うんですよね。頭の片隅には残り続けていた。でも、それが現実的に無理だと思っていたから忘れようとしていた。現実に身を置こうとしていた。
それでも、やっぱりわすれられなくて映画の仕事をしていたり、サメのイラストを書いたりしていて、あのクライマックスが感動的なのは終盤の盛り上がりだけじゃなくて、この映画からそういうものを感じ取らせる『情熱』のようなものがずっとフィルムにあって、そこが結実するからなんだと思う。
うん、最高の一作ですね。たぶん人生の中でベスト3に入る映画だと思う。
いいサメ映画です。
というのが今の自分がこの映画で言える『感想』のようなもの。ちょっとこの作品、自分の中で湧き上がるものが多すぎてまだ言語化しきれてないんですよね。エヴァと同じように人生の中でたびたび見直して、少しずつ言語化していきたい。
そういうわけでまた来年とかこの映画についてブログかムービーナーズさんで書くかもしれない。
そんな感じ。
以下はこの映画について見直して思ったことについて。
・チャムレーとサメについて、クリエイティビティと商業主義の対立
本作のサメは実は二種類いる。
・バーナードがカチンコで現実化させたサメ
・サメのぬいぐるみのチャムレー
これは初見だとちゃんと汲み取れてなかった部分で、この二つを通じて『過激さを求める商業主義の象徴としてのサメ』と『兄弟にとってクリエイティビティの象徴としてのサメ』みたいなものにそれぞれ分かれているのだと改めて見て認識した。
この作品、とにかくメタ的な話がずっとされていて、バーナードは「ハリウッドの闇でもある」みたいな話をしていて、マシューとジェイソンが映画を作りたい、という夢に留まらない範囲で映画についての話をしている。
サメ映画、まぁ近年の流れを見ていればわかると思うんですけど、とにかくインフレしているんですよね。
多頭サメシリーズとかは露骨ですが、とにかくある種の需要にそってめちゃくちゃなインフレが起きている。(それ自体を好き、という気持ちが自分にはあるが)
チャムレーは、兄弟にとっての最初のスターとしてのサメで、それは映画には耐えられない幼さではあるんだけど同時に二人の最初のクリエイティビティの象徴でもある。
一方でカチンコで現実化させたサメ、はこんなことをインターネットに接続した時の会話で言う。
ネットはサメの情報で溢れていた。
貴様らは――サメを怪物と思い込んでいる。それが私の存在理由か?
だから私の頭は殺意で満ちているのか?
ただ映画の悪役を創造主が必要としたから?
そんなことは 許せない
「今あなたのサーバーに……エロ動画ばっかりじゃない」
「それは貴様らの――頭の中だ」
ここにあるのは商業的な理由の欲望で、消費活動が「こうであれ!」という風な需要として示し続けているものだ。商業的な理由であれば、とにかく刺激的なものってのは強い。金!暴力!セックス!それはいつの時代でも『バズ』る概念だ。
当初、バーナードの魔法のカチンコによって現実化したサメには思想は存在しなかった。ただ機械的に人を襲う存在だった。でも、これによって大衆の欲望に晒されて、明確な『殺意』を持ってしまった。
多頭サメシリーズ、シャークトパスシリーズ、色々なサメ映画シリーズがあって、そういうサメ映画を見ていてたまに我に帰る時もある。
「これは果たしてサメなのか?」
そんな疑問。それについて本作ではサメ自身から、アンサーが帰ってくる。
「そんなものはサメじゃない。私たちを歪めるお前らを、お前らこそを殺してやる」と。
だから、この『現実化したサメ』がネットに接続され、自我を獲得し、怒りを発露する一連のシークエンスは昨今のサメ映画に対しての痛烈な批判でもある。(そこに切り込むほどに攻めたサメ映画という興奮と、耳が痛いという気持ちが両方ある。)
正直なところ、この『現実化したサメ』に私はとてもシンパシーを感じるところがあるし、見ていて悲しくなるところがある。社会の『こうであれ!』という欲望に感じる辛さ、というのは社会に望まれることをやりきれなくて無職になる自分にとってとてもよくわかる事柄だから。
ただ、悲しいのが、『現実化したサメ』がレンダリングして、バージョンアップした果ての姿だ。
ラストバトルで姿を表すバージョンアップした『現実化したサメ』
それはもうサメ、とは言えない姿になっている。(いや、サメ映画としてはの『サメ』ではあるんだけど)それこそ、引き合いに出した、多頭サメシリーズ、シャークトパスシリーズと変わらない『欲望されたサメ』だ。こうであれ、と我々消費者の欲望のままに望まれたモンスターとしてのサメ。
『欲望されたサメ』に憤りを持ったサメとしてはもう既に自分のサメとしての姿を失っている。そういうインフレして、『現実のサメ』を歪められることに対しての憤りをあなたはもっていたはずじゃなかったのか。
と、ここまで考えると『現実化したサメ』が打ち倒されて終わる本作のエンディングは悲劇になりかねない。(いや悲劇でもあるんだけど)
そこで用意されているのが「兄弟にとってクリエイティビティの象徴としてのサメ」としてのチャムレーなのだと思う。
ジェイソンも、映画を見てる私も、セックス!血飛沫!ゴア!みたいなサメ映画が大好きだけど、かといってとにかく過激であればなんでもいい、というわけじゃないと思う。やっぱりそこに(それがどれだけ低クオリティであっても)他では見れないようなクリエイティビティの発露を感じているから好きになっているはずだ、そう感じた。
ジェイソンが殺されかけた時に言う「お前たちの脚本だけは真剣に書いたんだ」というのはそこの矜持だと思う。
それはサメ映画を見ている時の私も同じで、多頭サメシリーズ、シャークトパスシリーズとかを始めとした「もはやサメなんかこれ?」というほどにインフレして原型を失いつつある、サメの『サメ映画』であってもやっぱり『サメ映画』だから見ている、というところがある。
セックス!血飛沫!ゴア!が好きならサメ映画にこだわらなくていいのだ。そういう映画はそれこそ今でも腐るほど生まれている。というか食われる=死、の方式すらあるサメ映画よりオリジナルモンスターとかの方がそういう需要は満たす可能性が高いとすら言える。シナリオに凝ったそういう系の映画ならゾンビの方が幅の広さはあるだろう。
それでも、やっぱりサメ映画が見たいのだ。たとえ過激化した味付けが好きでも、やっぱりサメ映画を好きだという気持ちがある。
ジェイソンにとってのサメ映画への愛っていうのはそういう私が感じる感覚と地続きなものである、と私は考える。
そういう『過激化だけを求めているわけではない何か』『サメというスターを使うことへのこだわり』みたいなものが『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』のチャムレーに込められた『兄弟にとってクリエイティビティの象徴としてのサメ』という意味なのだと思う。
だから、全ての問題が解決し、目が覚めた二人の元へはチャムレーが帰ってきている。
と、ここまで考えて思ったのだけど、そういう意味では『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』は「クリエイターが物作りをしている過程で商業主義に飲まれかかるも、自らのクリエイティビティの原点を取り戻して回帰する物語」とも見ることが出来るかもしれない。
ジェイソンとマシューはある意味で、一人のクリエイターの裏表であり、何かを作る情熱を失い、商業主義(インターネットに接続されレンダリングされ化け物となったサメ)に自らの原点(チャムレー)を飲まれ、それでも自らの物語を信じることでその流れを打破し、現実へ改めて戻り、原点を取り戻す……といったメタファーの物語として。
そんな葛藤が、本作のモンスターとしての『現実化したサメ』と『チャムレー』に現れているのではないかと思った。
『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』はどこまで意図してか、というのはわからないのですが『何かを作る』ということについて極めて本質的なところまで炙り出している、そんな映画だと思っています。
どうしても、自分の中でこの映画は(自分がのめり込みすぎているが故に)距離が近すぎて、うまく語りきれないところがあるのですが、「すごい作品だよ!」というのは折に触れて書いていきたいです。
またある程度語れるな、と思ったらまた書いていきたい。語り直し含めて。
そういう感じです。
本当に心に残る一作でした。『BAD CGI SHARKS / 電脳鮫』
是非。