えのログ

人生五里霧中

それは小説のような音楽、音楽のような小説。空木春宵『R____ R____』

 

 

 

 

 私の好きな小説に佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』という小説があって、その中にこんな一文がある。

 

 なぜなら、小説を書くような心で書いたら……それはもう、小説なのだから。

(1000の小説とバックベアード P.151)

 

 これは私にとって本当に大切な言葉の一つで、どんなに人に欠点を指摘されようと心の中で自分の文章を信じる限り、自分の小説について信じられる金言だからだ。

 その上で、空木春宵先生の『R____ R____』は小説でありながら、音楽(ロックンロール)をかき鳴らすような心で書かれた小説で、それは小説でありながら同時に音楽そのものだ 、と感じた。

 

 この小説を読んだのは今日、本当についさっきであまりにも興奮して、そのままの勢いでこうしてキーボードを叩いている。

 あまりにもそこに用意された言葉が、音が、自分の心臓を打ち付けるかのような衝撃的なものだったから。

 衝撃的だったのはプロットだったんだろうか? 違うと思う。この作品は極めて秀逸かつ、王道的なディストピアものとしての王道で近年の『百合SF』の流れを汲んだ一作で、その概要自体はTwitterでの宣伝やフォロワーさんの感想ツイートで知っていた。

 文体だろうか? 違うと思う。本作では『一九八四年』の『二重思考』を文章に落とし込み、興味深い文章技巧を凝らして書ききられており、物語の意味的にも、本を読んだ時の視覚的にも印象深いものが作られているがやはり、それだけでは説明がつかない。私は筒井康隆が好きでルビなどを効果的に使った実験小説は結構読んでいて、単純にそういった技法が使われるだけでは「おっ」とはなってもそれだけで心が震え上がることはない。

 

 それでも、この物語のページをめくるたびに、込み上がるもの、心が震わせられるものがあって、それは本作の語り手である『わたし』がマウジーに〈編み物女〉のデータ渡され、再生された時のような衝撃/マウジーから〈編み物女〉のデータを受け取り、再生した時のような衝撃。

 

 魂だ。魂に共鳴するものがあるからここまで衝撃を受けてしまう。

 

 この小説を読んでいて、物語に無我夢中になりながら並行して自分の中で爆速で思い起こされることがあって、それは中高生時代に初めて筋肉少女帯を聴いた時のこと。

 私は(現在進行形で世界と足並みを合わせられていないが)とにかく世界との折り合いが悪い人間で、今の私ならTwitterなり、こうしてブログなり、小説を書くなり、身の回りの人に話すなりしていくらか発散出来るであろう憤りの全てを自らの内に抱え込んでいた。

 当時の自分は読書感想文で400字詰めの作文用紙すら埋めることが出来ないほどに自分の感情を言語化する術がなく、それ故に自分の感情すら真っ当に掴めず、自分の渦巻く憤り、劣等感、悲しみ、絶望のようなものをうまく理解も表出も発散も出来なかった。

 私には、言葉がなかった。

 

 そんな時、確か貞本版エヴァのあとがきか何かで『綾波レイのキャラデザのイメージは筋肉少女帯の何処へでも行ける切手』という内容が書かれていて、それをきっかけに筋肉少女帯というバンドを何気なく聴いてみた。

 レティクル座妄想を聴いた。蜘蛛の糸を聴いた。

 世界が膨張して破裂するような衝撃があった。

 

 その時クラスの皆が聴いていた、テレビから流れてくるような自分にとって居心地の悪い、聴いているのがしんどいと感じるような音楽のイメージを根こそぎ吹き飛ばすようなドロドロとした歪んだ音、大槻ケンヂのそれまでの自分の定義では『上手い』とはとても思えないようながなりたてるようなボーカル。そして圧倒的に『負の感情』を爆発的なエネルギーで弾き出すような塊の音楽。

 

 大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫だよねぇ?

 

 という不安感を煽るような曲の歌い出しから世界全てをぶち壊すようなエネルギーに満ちたサビ、超絶技巧のギター、全てが自分の中のモヤモヤ、ドロドロとした何かに風穴を開けた。

 今の自分なら、『レティクル座妄想』が世界を見下す自分もまた愚かな世界の一部、みたいな自分達をメタに見たメッセージを含んだ曲だという目線を持てるのだけど、とにかく当時は自分にとって「生きている」という実感を与えてくれた音楽で、それがなかったら、死んでいた……というのは自分は怖がりなのでなかったかもしれないが、それでも精神的な意味でその音楽があって、ロックンロールという概念があって、そこに存在する爆発的なエネルギーを持ったビートが自分の何かを吹き飛ばして自らに存在する『生』にしがみつかせた、というのは一面の真実だと思う。

 とにかく筋肉少女帯を聴きまくった。当時はサブスクもなくて、筋肉少女帯は無期限休止時期で、アルバムもBOOKOFFをめぐっても全然見つからなくて、あちこちのTSUTAYAや図書館をめぐって辛うじてあったCDを手に入れてしゃぶり尽くすように聴いていた。

 音楽が、ロックンロールが人間の『生』を思い出させる、実感させる、という効果は絶対に存在する。それが自らの『言葉』のようなものを持たない人間ならなおさら。世界への呪いのような感情を持っている人間なら、絶対に。

 言葉が、言葉がここにあるのだ。爆音として現れた言葉が。

 

 空木春宵『R____ R____』はまさにそんな十代の時の経験を今になってなお追体験させる、追体験させられる、そんな暴風雨の中に放り込まれるような危険な小説だった。あまりにも鮮烈なエネルギーが発せられていて、自分は読んでいる時の心臓の高鳴りが凄まじかった。

 

 そして同時にこの高鳴りがただの十代の頃の感覚を想起されたノスタルジー『だけではない』とも思っていた。

 いま・ここ、で人々が常に直面している感覚、憤り、絶望、怒りを掬い取って一ページ一ページに地肉と共に叩きつけ、それが文字となってこの小説を構成しているという感覚があった。

 

 またしても筋肉少女帯の引用となってどうしようもないのだが、十代の頃好きでなかったアルバムに『UFOと恋人』というものがある。

 当時、なぜかブックオフにあってバイト代で買って自転車を走らせて家に帰りコンポで流した。尋常じゃなく楽しみで、(なぜなら全曲聞いたことがない曲だったから)一曲一曲歌詞を読みながらじっくり聞いた。

 そうして聴きながら、聴き終わって、思った。

「なんか違う」

 それは『レティクル座妄想』で感じたどろりどろりと濁りつつもギラギラの生命力と衝動に満ちたものではなくて、何処か諦め、どうしようもないさ、といった悲しみに満ちた曲ばかりだったからだ。

 

 コアなファン 捨ててもほしい タイアップ

 

 という歌詞から始まる『タイアップ』という曲があって、歌詞は面白いと思ったのだけどなんとも投げやりな感じがして入り込めなかった。

 唯一、曲としては気に入ったものがあってそれが『パレードの日、影男を秘かに消せ!』という曲だった。ただ、歌詞があまりにも救いがない。

 

 拝啓 親愛なる江戸川乱歩

 あなたの物語の中で、退屈なパレードを憎みながらも

 実は憧れた影男達は

 犯罪という猟奇の果てに死んでいきました

 彼らほどに勇気のない僕は、

 退屈なパレードの一員になろうと思っています

 

 絶望的だった。どうして自分にとっての世界に風穴を開けてくれたバンドがそんなことを歌うのかと悲しくなった。

 そうして、ほとんどこのアルバムは聴かなかった。

 

 ただ、大人になって、ここ数年やたらとこのアルバムを聴くようになった。

 どうしようもなく、このアルバムの悲しさに共感できるようになったからだ。

 

 あんまりそれ自体を自分で書いて、示し続けてそういうのを自分の代名詞にしたキャラ化というスティグマに囚われたくないからそれを書こうという時にしか書かないんだけど、昨年仕事中に頭の思考がとまらすぎて、完全にストレスでやられてADHDという診断を病院で受けてストラテラを仕事の時飲んでいた。

 自分の衝動性、みたいなものは行動というより頭の中で常に思考が動き回っていて、『考えすぎてしまう性質』みたいなのが一番顕著で、それがこういう風にブログや小説を書く時にはいい感じに作用することもあったり、コンテンツを楽しむ時も心が大きな動きをしていて、そういった性質に合わせて自分の価値観が形成されたからか、そう考えるしか幸せを享受できないという諦めかはもう自分でも切り分けができないが、そういう自分の性質を私は結構好きだ。もちろんそれで生きづらいことがあったり、自分と同様の診断で生きづらさを抱えている人がいていいことなんて一つもない、という人の考えもそうだ、と思う。そのうえで、自分は自分の性質が好き、というのがあった。

 

 そんな自分にとってストラテラを飲んで働く、というのはめちゃくちゃにキツかった。

 

 ストラテラとの相性はまぁまぁ合っていて、まぁまぁ合っていなかった。

 色々な人の語りであったようにストラテラを飲んだ時の頭の中の静けさ、というのは体験として壮絶で「みんなこんな頭落ち着いてるの!?」という衝撃があって、最初は仕事で感情がワーっと動いてパニックになることが減って良いこともあった。

 ただ嫌なことが二つあって、自分が情緒と感じていたものの停止、と尋常じゃない疲労感。

 

 コンテンツを楽しんでいた時に「うおおおおおお!!!!!!」という感覚がなくなった。もちろん「楽しいな〜」はあるんだけど、その感覚で自分の生きる甲斐、みたいなものを得ていた自分としてはそれが本当にショック。そういう衝動がなくなってしまったのでしばらくうまく文章も書けない、みたいな時期もあった。世界が止まってしまった感覚。

 そしてとにかく疲れる。薬を飲んで2〜3時間はいいんだけど、どんどん睡魔が出てきて体が重くてしょうがなくなる。結局ストラテラを増量したりして、朝と昼に飲むようにしていたんだけど、夜になるともう動きたくない。ある程度は慣れたけど疲労感はずっと蓄積されていて本当にキツかった。

 そうなるとそれまでは仕事後に自分のやりたいことやって「楽しい!!!!!!幸せ!!!!!!」となっていたんだけど、仕事後に「疲れた……寝よう……」ってなる。

「なんのために生きてるの自分?」となる。

 それでも薬飲んでないと働くのは辛くて、表面上は割合自分はなんとか出来ていたんですが、もう心身がズタボロ。なんで薬飲んで、こんなに心身弱らせてまで『みんな』に合わせて生きようとしているんだろう? そんな気分。

 もちろん、そうやって世界にコミットすることで『生き甲斐』みたいなものを感じる人がいるということは認識していて、そういう人は凄いと思うし、そういう人の苦労や、努力が報われてほしいという気持ちもある。

 でも、自分はそうでなかった。元々社会、というか世界に馴染めない感覚があって、そういう自分にとって『世界に無理やり合わせる自分』というのが本当に好きになれなかった。「世界嫌いだぜ」みたいなことを思いながら通院代を払って薬代を払って心身弱らせる薬飲んで働こうとしている自分がわけわからなかった。

 

 そんな時、『パレードの日、影男を秘かに消せ!』という曲、そして『UFOと恋人』というアルバムのやるせなさを尋常じゃなく理解してしまった。涙は出なかった。情緒はある程度『冷静に』『正常に』なっていたから。

 自分は確かに影男を消していた。

 ただ、「ああ、こういう悲しさの曲だったのか」と理解が初めて出来た。

 

 長くなった。そういう過程があって「いま・ここに地獄もディストピアもあるのだ」という実感が私にあった。

 何かしら生きる道、というのはいくらでもあるはずで、もっと楽に生きる手段とか、その環境に適応する手段もある可能性はいまでも思うけど、それでも私にとってその時の世界というのは本当に生きにくいものだった。自分が読んできたディストピア作品のようだった。

 薬を飲みながら働いていて、一番連想したのは小林泰三の『脳髄工場』だったかな。情緒が失われる恐怖、というのとこの作品ほどに綺麗すっぱり頭を変えられたら良いなと思っていた。

 

 それで今作、『R____ R____』を読んでいるとあまりにも言葉が溢れてくるわけですよ。ずっと魂を揺らされ、ページを捲りながら辿り着いた[Outro]に書かれる文章。

 そこで書かれる脳内報酬系についての作用っていうのが自分の中でずっと引っかかっていた感覚とフィット。

 そうして自分の中で一度失っていた影男ともう一度再会する感覚。今作を読んでいた自分の感覚を理解する。

 

 言葉だ。ここに言葉があるのだ。

 

 いつか感じた感覚が蘇る。読んでいてずっと自分の中で疼いていた感覚が過去だけでなく現在進行形の自分の『言葉』が引き摺り出される感覚。

 

 作中のロックンロールによってもたらされる解放と文章で弾き出されるようなドライブ感がそういう私の感覚、魂を引き摺り出す。

 ロックとは、触れた者の魂を引き摺り出すものだと理解する。

 

 文章としての定義ではなく、読書体験としてその感覚を自分の中で掴んだ、という感覚が読んだ時の興奮として溢れている。

 

 空木春宵先生の『R____ R____』、最高です。

 

 

 

 

 過去に空木春宵先生の作品について書いた記事はこちら。

 

 

enonoki.hatenablog.com

 

『感応グラン=ギニョル』本当に良い本なので是非。

 

 

 

その他もろもろ改めて作品の構造で考えたこととか補足とか言い訳とか

 

・このブログ記事を書き上げて改めて再読して思ったことがある。『わたし』がなぜ『わたし』となっていて、かつ、マウジーと出会ったのか。見立ての解釈。

 

 思ったことは二つ。

 

 1.名前が未設定の理由

 2.マウジーとの出会いについて

 

 最後の『わたし』の語りから、マウジーが誰にでも声をかけていた可能性、というのはあるにはある。ただこの小説は『わたし』の一人称で語られた物語で、マウジーを見つけたのは『わたし』と(マウジーに見つけられた、のではなく本質的には『わたし』がマウジーを見つけた)解釈したい、と思う。

 そうなった時に『わたし』を解放したのはロックンロールでもあり、『わたし』自身でもある。『わたし』の変革、というのは『わたし』がマウジーを見つけた瞬間に始まっている。

 これを上でダラダラと書いたこの小説=ロックンロール、という見立てと重ねてやや飛躍した発想する。

 この『わたし』というのは読者である私たち自身のことだ。マウジーと呼ばれた彼女はこの本『2084年のSF』、出会うロックンロールがこの小説『R____ R____』だ。

 作中のB.Bは現実世界のあらゆる抑圧の象徴であり、この小説=音楽と出会った読者は変革される。だが、この本自体を手に取ったのはどのような経緯があったとしても読者自身の選択の可能性が強く、

 マウジーを見つけ、ロックンロールを聞く

 この本を見つけ、この小説を読む

 というのに相似の関係を見出せるな、と思った。

 この小説自体が、世界に対しての反抗の歌なのだ、と思った。

 

以下は反省とか。

・とにかく読んだ後、勢いで書いた結果作品についてというより自分語りみたいになってしまった。作品の技巧とか、そういった部分の凄さもあるのですが、とにかく自分の心が震えたコアな部分を書き残そうとするとどうしても『なぜ自分が感動したか』という理由になり、そこの説明のために自分の背景を語る、という感じで書いたからこうなった。もうちょっと俯瞰して語ったほうが布教とかとしてはいいんだろうなぁ、と思いつつまぁ自分のブログなのでとにかく好きということを書き残します。

 

・自分自分自分、ではなくてもうちょっと色々な世の中にある鬱屈、みたいなものを吐き出させる作品なんだ〜って語りを『出来る』作品だと思うんですが、まずはこの作品に熱をもらった、という自分の話から消化したくてこうなってしまった。落ち着いたら距離を持って改めて語りたいですね。

 

・「自分の感覚を言語化してくれた」といった表現はもう繰り返されすぎて、あまり使わないようにしたいな、と思いつつもそういう感じの文章になってしまった。精進します……

 

デヴィッド・ボウイについてのリスペクトが大量に込められたものであろう小説、というのは参考文献などからもビシバシと伝わっており、それを理解してはいたのですが、作中で描かれる『ロック』というのはなんだろう、となったところ筋肉少女帯と自分の関係の自分語りになってしまった。(あとデヴィッド・ボウイについてに自分が通っていなかった……これを機会にアルバムを聴いてみる。)もうそういう話をしないと感想を書けないくらい夢中に読んだ作品ということで……

 →まずは『Hunky Dory』を聴いてみたのですがとてもいい感じ。これから年月を重ねて心身に染み込ませていきたい。

 

・空木春宵先生の小説はとにかく自分の読んでみたい感情、感覚、魂、のようなものが滲む、『(勝手にこっちが)読み取って』しまうような小説で、こんな作品を生み出してくれる方が創作を続けられるような世界であってほしいなぁと思うのです。波は来ていると思うのですが、もっともっともっともっとヒットしてくれ〜〜〜〜〜〜

 

・割と自分の背景を含めた話を書くようなブログ記事が連続しているが、あまりそういうのばかりやると身の切り売りにするのでそんなに乱発はしないようにしたい。自分の生きにくさは自分の生きにくさで、あまり属性で括られたくないため。ただ、それだけ自分の背景含めて語りたくなる作品と出会うとそれは仕方ない。

 

ストラテラを飲むこと自体抵抗あるような文章になってしまった。まぁ実際ある程度抵抗は実際あるんですが、ストラテラ自体を否定はしたくない。それが多くの人を助けているのも事実だし、自分が助けられた部分もある。結果的に負担の方が大きかっただけで。かなり主観的に『飲まざるを得ない』みたいな感覚でここ一年飲んでいたのが良くなかったんじゃないかと思っています。頭が静かになったのは良い側面もあったし、それによって仕事で冷静になれた部分もあったり、集中できるっていうのも文章のテーマさえ定まっていれば使えるとか、今後社会に戻る時にやっぱり使ったほうがいい、とかそういう可能性とか自分を助けてくれる道具としてまた向き合う時はあるかな、と思っています。ストラテラ自体、というよりそれを『飲まざるを得ない流れ』みたいなものにしんどさを感じていた。

 

・似たようなロックを得られない不自由な環境でロックンロールと出会って心の解放を得る物語、という文脈で大槻ケンヂの(またかと言われるかもだが・・・)『イマジン特攻隊』を思い出した。読んだのは相当前なのでこれを機会に読み返したい。

 →なんというか自分の脆弱性ってこういうところにあるんだなぁとしみじみしました。描き方、設定など、全く別のアプローチですが、これもまたロックの力を信じている良作だと思います。

 これに収録。

 

 

 

 そんな感じです。